今月の音遊人
今月の音遊人:村松崇継さん「音・音楽は親友、そしてピアノは人生をともに歩む相棒なのかもしれません」
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谷崎潤一郎の『痴人の愛』に、「まだその時分、東京にはダンス・ホールがそう沢山なかったので、帝国ホテルや花月園を除いたら、(後略)」という一文がある。
『痴人の愛』は、初出の新聞と雑誌連載が1924年から翌25年にかけて(大正13〜14年)の長編小説で、舞台となるのは1917年(大正6年)から1922年(同11年)までの東京と横浜だ。
主人公の河合譲治がナオミを連れて銀座のカフェ「エルドラドオ」へソシアルダンスを踊りに行くくだりでも、「ホテルや花月園は外国人が主であって、服装や礼儀がやかましいそうだから(後略)」というように、たびたび実在の舞踏場が引き合いに出されている。
この花月園とは、1914年(大正3年)に神奈川・鶴見にオープンした西洋式の遊園地のことで、そこに1920年(同9年)、園内の建物を改造して開設されたのが、日本における民間初の常設の社交舞踏場=ダンスホールだった。
日本の社交ダンスは、東京・日比谷に鹿鳴館が開館(1883年=明治16年)して以来、芝の水交社、日比谷の帝国ホテル、鎌倉の海浜ホテル、横浜のグランド・ホテルなどを舞台に、“上流階級のたしなみのひとつ”として知られるようになってはいたが、広く一般庶民に親しまれるようになるのは1920年以降の話。
その口火を切ったのが、花月園舞踏場のオープンだったということになる。
さて、踊れるスペースを提供するだけでダンスホールと名乗ってしまえるのであれば、遊園地を経営するような実業家がわざわざ手を出すこともなかっただろう。
ダンスホールとして経営するには、踊るための演奏(と踊りのレクチャー)への資本投下が必要になる。そこを出し渋ると、お客の興味が続かず、せっかくのブーム=ビジネスチャンスに水をさしかねない。
花月園では、東京の築地精養軒で晩餐のBGMを担当していた楽士を中心にダンス専門のバンドを編成。これが本邦初のダンス専門バンドの誕生となる。
この花月園専属ダンス専門バンドの二代目を務めたのが、太平洋航路の客船・地洋丸に乗り込んでいた波多野バンドのリーダー、波多野福太郎を中心に結成されたバンドだった。
この人選を見ても、花月園がダンスホールにとってのバンドという存在をいかに重視していたかがわかるのではないだろうか。
当時の日本では、第一次世界大戦による空前の大戦景気で大量の成金が出現。好景気に沸くなか、ダンスホールも林立するようになり、アメリカで大流行していたジャズの伴奏&フォックス・トロットというスタイルを規範とした文化が一気に全国へと広がっていくことになった。
ところが……。
1923年(大正12年)9月、南関東を中心に甚大な被害をもたらすことになる巨大地震が発生する。関東大震災だ。
この災害の影響で、首都圏のダンスホールを拠点に発信されようとしていた日本のジャズ文化は、被害のなかった関西に移行せざるを得ない状況になる。
次回は、関西圏でのジャズの流行とともに、震災復興とジャズの関連について触れてみたい。
参考:内田晃一『日本のジャズ史=戦前・戦後』スイング・ジャーナル社
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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