今月の音遊人
今月の音遊人:大江千里さん「バッハのインベンションには、ポップスやジャズに通じる要素もある気がするんです」
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2019年5月1日、元号が平成から令和へ改められた。
明治以降の日本では、一世一元の制に則り、天皇の崩御によって改元が行なわれてきた。令和は明治以来初めて、譲位によってこれが行なわれることとなった。
譲位という方法がとられた背景には、崩御による改元が社会に与える影響の大きさがあるのは想像に難くない。私自身も、昭和から平成への改元時にそう思わせる“空気”を味わっている。
前稿で取り上げた井田一郎が活躍する大阪のエンタテインメント・シーンも、大正天皇の崩御(1926年12月25日)の報を受け、直後に迎えることになった正月から喪に服していた。街からはこの時期、歌舞音曲が消えることになる。
日本には、徳川幕府によって江戸時代に制定され、第二次世界大戦終了後まで実質的に効力を有していた“服忌令(ぶっきりょう)”という法があった。これは、近親者の死に際して喪に服す期間を定めたものだった。
明治政府でも「親の場合で13カ月」と定めていたから、親よりも大きな存在だった天皇崩御となれば、昭和2年(元年は6日しかなかった)のあいだぐらいは国民もおとなしくしていなさい──ということになるのは当然。
ところが、2月初旬の大喪の礼を待たずにダンスホールが営業を再開。
たちまちこれを取り締まる条例が発せられたが、お行儀よく従うところが少なかったのか、その年の12月26日まで、大阪市内のすべてのダンスホールには営業禁止の御沙汰が下されてしまった。
これを機に、乱立していた大阪市内のダンスホールは次々と廃業。バンドマンたちも大阪を後にして、関東大震災からの復興を遂げていた東京へと拠点を移すことになった。
大阪のダンスホールでジャズのウデをみがいたミュージシャンたちの演奏は、東京の歓楽街でも大いに評判を呼び、ステージだけでなくレコード会社の録音仕事でも引っ張りだこの状態となる。
先陣を切っていた井田一郎も「東京行進曲」「アラビアの唄」「私の青空」などを編曲し、ジャズの風味をタップリと染み込ませた流行歌を全国へと行き渡らせる立役者のひとりになっていた。
東京に戻った井田は、例によってバンドを結成しては壊すという不安定な演奏家活動を続けていたのだけれど、それとは別にこの時期の共演者、ドラムスの飯山茂雄とサックスのリノ・カブロがとても気になったので、次回はこの2人のなにが気になるのかを書き進めてみたい。
参考:『日本のジャズ史 戦前戦後』内田晃一(スイング・ジャーナル社)、
『日本のジャズは横浜から始まった』瀬川昌久、柴田浩一(ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館)
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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