今月の音遊人
今月の音遊人:秋川雅史さん「今は声を磨くことが楽しい。まだまだ成長途中で、人生を上っている段階です」
11948views
2020年のベートーヴェン生誕250年には、世界各地の実力派アーティストたちの記念碑的な録音が数多く登場している。ここにリリースされた2枚の新譜も、まさに国際舞台で活躍している巨匠たちの聴きごたえのあるアルバム。メモリアルイヤーに作品をより深く知り、ベートーヴェンに近づくための録音で、作曲家の真意が浮き彫りになっている。
ヴァイオリンのアンネ=ゾフィー・ムター、チェロのヨーヨー・マ、ピアノ&指揮のダニエル・バレンボイムがベルリンのフィルハーモニーに集結し、ライヴ収録したベートーヴェンの「ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲」は、3人の巨匠がそれぞれの持ち味を存分に生かした秀演。ムターとマは、1979年にカラヤンと録音を行って以来40年ぶりの録音であり、マとバレンボイムも以前この作品での共演を行っている。
ベートーヴェンの三重協奏曲は、ベートーヴェンの弟子であった若きルドルフ大公が知人たちと演奏し、ピアノを受け持つために書かれたといわれる。それゆえピアノ・パートは効果的であるが、難しい技巧は使用されていない。ヴァイオリンとチェロは各々楽器の響きを生かした主題が現れ、ピアノとオーケストラがそれに和す。
今回のオーケストラ、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団は、1999年にユダヤ系のバレンボイムとパレスチナ出身の思想家エドワード・サイード教授によって創設され、イスラエルとパレスチナの若者たちで構成されている。現在は周辺国の楽員も加わり、欧米では高い評価を得ている。
このアルバムでは3人の巨匠と互角に渡り合い、みずみずしい音楽を披露しているが、交響曲第7番でもバレンボイムのタクトのもと、特有のリズムを躍動感をもって演奏している。
もう1枚は、オペラとドイツ・リート(歌曲)の表現者として世界中から熱い称賛の目を向けられているドイツのバリトン、マティアス・ゲルネと、ポーランド人の両親のもとカナダに生まれた若きピアニスト、ヤン・リシエツキによるベートーヴェンの「歌曲集」である。
ゲルネの歌声は弱音の繊細な響き、歌詞の的確な発音、表現力の深さ、作品の内奥を極める洞察力などで知られる。このアルバムでは、彼が共演者としてリシエツキを指名したという。
「初めて会ったとき、ヤンが素早く理解する能力をもち、さらにピアノであらゆるアイデアを実現する大きな可能性をもっていることに私は気が付きました」と語っている。
ゲルネは多岐に渡る詩人の歌詞にベートーヴェンの曲を付けたものを選曲した。ゲレルトの「6つの歌」から開幕し、ヤイテレスの「遥かなる恋人に寄せて」で幕を閉じるまで、ヘルティの「嘆き」、マティッソンの「アデライーデ」などをはさみ、リシエツキと一体となり、柔軟性に富む美しいバリトンを聴かせている。
リシエツキは以前のインタビューで、こんなことをいっていた。
「ぼくは幼いころからピアノひと筋の人生を送ってきました。ふつうの子どものように外で遊びまわることはありませんでしたが、ピアノが大好きですから悔いはありません。今後、自分の人生がどのように発展していくのか、とても興味があるのです」
彼はいま、多くの偉大な音楽家から共演のオファーが絶えない人気ピアニストに成長した。ゲルネとの共演で、またひとつ階段を上ったようだ。声に寄り添うそのピアノは、あたかももうひとつの声のようだから。
伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー