Web音遊人(みゅーじん)

トレイシー・ソーンの自伝的エッセイが刊行。エヴリシング・バット・ザ・ガールを読む

トレイシー・ソーンの自伝的エッセイ『アナザー・プラネット 郊外の十代』の邦訳本が2020年6月に刊行された。
エヴリシング・バット・ザ・ガール(EBTG)のヴォーカリストとして知られ、近年ではソロ・アーティストとして活動するトレイシーだが、雑誌や新聞に随筆・エッセイを寄稿するなど、文筆家としても知られている。
『アナザー・プラネット』は『安アパートのディスコクイーン トレイシー・ソーン自伝』に続いて、2冊目の邦訳となる。未訳の1冊を含めると、本国イギリスでは通算3冊目の著書だ。
いずれの本もトレイシーならではの視点から音楽や文化、ライフスタイルが描かれており、彼女の音楽のファンでなくとも楽しむことが出来る。ここで3冊について紹介してみよう。
※タイトルのあとのカッコ内の数字は、本国イギリスでの発表年。

(1)『安アパートのディスコクイーン トレイシー・ソーン自伝』(2014)

ロンドンから電車で約30分の郊外の街、ブルックマンズ・パークに育った十代の少女が、プロ・ミュージシャンの生活へと身を投じて成功を収めるまでを描く自伝。音楽やオシャレ、男の子に惹かれる、どこにでもいる女の子が1970年後半、パンク・ロックに目覚め、ハル大学で公私共にパートナーとなるベン・ワットと結成したEBTGでの活動が語られるが、その折々の音楽シーンにおける出来事も描写されている。ザ・ジャムの解散やザ・スミスの台頭、スペシャルズのテリー・ホールに影響されて刈り上げヘアスタイルにしたり、コートニー・ラヴから「あなたの大ファンなのよ!」と告げられるなどさまざまな逸話が楽しい。
ちなみに和製英語である“ネオアコ”という言葉が一度も出てくることはなく、必要に応じて“ニュー・ジャズ”というタームが用いられているが、アコースティックから1990年代のエレクトロニックへの路線変更が決して作為的でなかったことが語られている。マッシヴ・アタック「プロテクション」へのゲスト参加や「ミッシング」のトッド・テリーによるダンス・リミックス、アルバム『哀しみ色の街』(1996)での大胆なドラムン・ベース導入などについても言及されている。
1998年1月に双子を出産(後に3人目も生まれている)したことでEBTG最後のアルバムとなった『テンペラメンタル』(1998)については、“ほかの誰かのアルバムにゲストヴォーカルとして参加している”気分とけっこう冷淡に突き放したりもするが、二段組み380ページでじっくり読ませてくれる。

『安アパートのディスコクイーン トレイシー・ソーン自伝』(Pヴァイン/2019年5月31日発売/3,650円+税)

(2)『Naked At The Albert Hall – The Inside Story Of Singing(2015/未訳)

トレイシーが“歌うこと”に焦点を当てたコラム&エッセイ集。各章ごとに話題を分けており、自らのヴォーカル・スタイル、ステージ上での緊張、ファンとの関係、アクセントへのこだわり、オートチューンの賛否、彼女自身の不正咬合など、とにかく豊富でまったく飽きさせない。カレン・カーペンターやサンディ・デニー、スコット・ウォーカーに一章を割いていたり、“一番好きなシンガーはダスティ・スプリングフィールド”、“ケイト・ブッシュの「嵐が丘」はヒッピー臭すぎ”などユニークな見解も面白い。さらにスクリッティ・ポリッティのグリーン・ガートサイド、ジ・XXのロミー・マドリー・クロフト、アリソン・モイエとの対談も収録するなど、とにかく興味深いエピソード満載なので、こちらも邦訳を期待したいところだ。

(3)『アナザー・プラネット 郊外の十代』(2019)

『安アパートのディスコクイーン』でも一部描かれた十代のトレイシーの日々が、より掘り下げられている近著。50代となった彼女がブルックマンズ・パークを再訪、当時の日記帳を基にさまざまな考察を加えていく。
1970年代後半、ロンドン郊外での1人の少女の心情がヴィヴィッドに表現されており、イギリスも日本も思春期というのは同じだと再確認させられる。ただ、ラジオやテレビでヒット曲ばかり聴いていた彼女がパンク・ロック、そしてポスト・ロックとコアな音楽を愛聴するようになったり、1979年になるとちょっと背伸びしてサルトル、カミュ、オーウェルなど文学に傾倒する過程も、青春していて眩しいほどだ。
バンド名や映画など、随所で触れられるちょっとしたタイトルの数々も楽しい。1977年当時彼女が見ていたテレビ番組の一部を抜粋すると『六百万ドルの男』『ルーツ』『ストリーツ・オブ・サンフランシスコ』『猿の惑星』『ロックフォードの事件メモ』…と、思わず笑みがこぼれてしまう。

『アナザー・プラネット 郊外の十代』(Pヴァイン/2020年6月3日発売/2,900円+税)

3人の子供たちも大きくなって手がかからなくなり、シンガーとして『RECORD』(2018)を発表するなど、再び活発に動き出したトレイシー。相方のベン・ワットも2020年4月に予定されていた来日公演が新型コロナウイルスの影響で中止になってしまったが、ソロとして元気に活躍中だ。音楽だけでは描ききれなかったその軌跡を、書籍でひもといてみよう。

山崎智之〔やまざき・ともゆき〕
1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,000以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検第1級、TOEIC 945点取得
ブログインタビューリスト

特集

五条院凌

今月の音遊人

今月の音遊人:五条院凌さん「言葉で表現するのが苦手な私でも、ピアノなら自分の感情を、音を通して表現できる」

11124views

音楽ライターの眼

【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#020 個性と“ヒットの法則”を両立させたトリオ・ジャズの傑作~レイ・ブライアント『レイ・ブライアント・トリオ』編

1688views

Disklavier™ ENSPIRE(ディスクラビア エンスパイア)- Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

限りなく高い精度で鍵盤とハンマーの動きを計測するヤマハ独自の自動演奏ピアノの技術

29015views

初心者必見!バンドで使うシンセサイザーの選び方

楽器のあれこれQ&A

初心者必見!バンドで使うシンセサイザーの選び方

25535views

大人の楽器練習記:バイオリニスト岡部磨知がエレキギターを体験レッスン

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:バイオリニスト岡部磨知がエレキギターを体験レッスン

21354views

宮崎秀生

オトノ仕事人

ホールや劇場をそれぞれの目的にあった、よりよい音響空間にする専門家/音響コンサルタントの仕事

4773views

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

ホール自慢を聞きましょう

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル

17287views

こどもと楽しむMusicナビ

親子で参加!“アートで話そう”をテーマにしたオーケストラコンサート&ワークショップ/第16回 子どもたちと芸術家の出あう街

6505views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

16851views

武豊吹奏楽団

われら音遊人

われら音遊人: 地域の人たちの喜ぶ顔を見るために苦しいときも前に進み続ける

2837views

パイドパイパー・ダイアリー

パイドパイパー・ダイアリー

音楽知識ゼロ&50代半ばからスタートしたサクソフォンのレッスン

8935views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

35035views

今、注目の若き才能 ピアニスト實川風が ドラム体験レッスン!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】今、注目の若き才能 ピアニスト實川風が ドラム体験レッスン!

9959views

上野学園大学 楽器展示室

楽器博物館探訪

日本に一台しかない初期のピアノ、タンゲンテンフリューゲルを所有する「上野学園 楽器展示室」

21797views

音楽ライターの眼

Googleが浮き彫りにするAIとジャズの本質

5096views

オペラ劇場の音楽スタッフの仕事 - Web音遊人

オトノ仕事人

舞台上の小さなボックスから指揮者や歌手に大きな安心を届ける/オペラ劇場の音楽スタッフの仕事(後編)

15691views

Leon Symphony Jazz Orchestra

われら音遊人

われら音遊人:すべての楽曲が世界初演!唯一無二のジャズオーケストラ

2461views

STAGEA(ステージア)ELB-02 - Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

見ているだけでわくわくする!弾きたい気持ちにさせるエレクトーン

8597views

アクトシティ浜松 中ホール

ホール自慢を聞きましょう

生活の中に音楽がある町、浜松市民の音楽拠点となる音楽ホール/アクトシティ浜松 中ホール

17394views

パイドパイパー・ダイアリー Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

楽器は人前で演奏してこそ、上達していくものなのだろう

9667views

バイオリンを始める時に知っておきたいこと

楽器のあれこれQ&A

バイオリンを始める時に知っておきたいこと

10044views

Kitaraあ・ら・かると

こどもと楽しむMusicナビ

子どもも大人も楽しめるコンサート&イベントが盛りだくさん。ピクニック気分で出かけよう!/Kitaraあ・ら・かると

7305views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

11833views