今月の音遊人
今月の音遊人:村松崇継さん「音・音楽は親友、そしてピアノは人生をともに歩む相棒なのかもしれません」
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連載18[ジャズ事始め]商品価値が薄れたからジャズは国ごとにカスタマイズできるようになった!?
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2020.8.21
前稿で、20世紀初頭の上海ではアメリカから輸入されたジャズというスタイルが大流行したけれど、上海オリジナルといえるジャズを生み出すには至らなかった、という論考を提示した。
その背景には、アメリカのジャズを(なるべくそう聞こえるように)演奏できることが商業的成功につながっていたこと、“自己表現”の手段としてジャズが用いられる機運がまだ高まっていなかったこと、などがあると考えた。
要するに、アメリカで流行っているジャズという音楽を器用に真似ることができれば一攫千金も夢じゃなかったから、余計なことは考える必要がなかった──ということになるだろうか。
こうした傾向は、ジャズを生んだアメリカで、ジャズ自体の価値が薄れるまで続くことになる。
1960年代の終わりを境に、それまで隆盛を誇っていたジャズというブランドが、突然、効力を失ってしまった。
1960年代は、ジャズにとってジャンルに“モダン”という称号を冠されるほど世界から認められた充実期である一方、形骸化への反発から“なんでもあり”ともいうべきさまざまな方法論の取り込みが起き、結果的にサブジャンルを乱立させることになる。
すでに触れたように、ジャズに民族主義的な作風が台頭してきたのもこの時期。つまりは、アメリカ至上主義が崩れてジャズのニーズの軸が“自己表現”に移っていったことを、国ごとにカスタマイズされたジャズのシェアの拡大が物語っていると考えたわけだ。
日本ではこの時期にどんなことが起きていたかというと、1953年(昭和28年)に13日間というロング公演で10万人を動員した「世界最大のジャズ・ショー」が開催されるなど、戦後日本のジャズ・ブームのピークを迎えたものの、翌年末には早くも下火となり、ウエスタン・ミュージックに取って代わられてしまう。
これは、日本のジャズ・ブームに乗ってアメリカから“本場の”ミュージシャンが来日するようになったことが原因のひとつだと考えられる。どんなに上手にアメリカのジャズ・ミュージシャンっぽく演奏できたとしても、ホンモノが来てしまえば影が薄くなってしまうのは当然だろう。
こうした状況のなか、穐吉敏子、渡辺貞夫、佐藤允彦といった“新しい日本のジャズ”を担う人材が渡米する。
この人たちの動向は“アメリカのジャズ”を輸入することだけではなかったところから、日本独自のジャズが生まれることになったのではないかと考えるのだけれど、次回はこの3人の業績に絞って1970年代の日本のジャズを総括し、視点をアジアへと戻していきたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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