今月の音遊人
今月の音遊人:諏訪内晶子さん「音楽の素晴らしさは、人生が熟した時にそれを音で奏でられることです」
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連載37[ジャズ事始め]留学先から“アメリカならではのジャズ”を持ち帰らなかった佐藤允彦が示したものとは?
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2021.6.7
佐藤允彦が丸2年の留学を終えて帰国したのは、1968年8月。
その翌年にリリースしたアルバム『パラジウム』は、ジャズ専門誌から賞を授与されるなど、“アメリカ帰り”の彼に対する期待の大きさと注目度の高さを示すに足る評価を得た。
『パラジウム』の収録メンバーは、ベースの荒川康男とドラムスの富樫雅彦。
荒川は佐藤より2年年長で、1年先にバークリー音楽大学へ入学し、ほぼ同時期に帰国した“留学組”。
富樫は1年年長で、1960年代初頭から日本のフリー・ジャズ・シーンを牽引する存在として脚光を浴びていたが、1969年は“実験的音響空間集団ESSG”を立ち上げ、彼の経歴のなかでもひときわ重要な年とされる。それを象徴する作品として『パラジウム』も挙げられている。
『パラジウム』は、1曲目『オープニング』がリズムもメロディもない30秒に満たない短さで“フリー”の雰囲気を強く意識させるものの、2曲目はビートルズ・ナンバー『ミッシェル』を取り上げていたり、タイトル・チューン『パラジウム』も荒川の4ビート・ベースが全編に敷かれるなど、“新しい世界に向かって突っ走る”というよりは、従来のビバップ的な規範から逸脱しながらもそれらを融合する“調整力”の重要さを示そうとした作品のように感じる。
佐藤允彦のそうした“役割”に対する論考は、『パラジウム』をレコーディングした直後に宮間利之&ニューハードと共演した『パースペクティヴ』によっても証明される。
『パースペクティヴ』では、ピアニストとしてだけでなく、作曲と編曲でも参加。1960年代の日本で人気・実力ともに1、2位を争う存在だったこのビッグバンドからのオファーは、“その実力を認めたうえでの起用”でなければ実現しえない企画だと考えられるからだ。
つまり、“一歩先を進んで演奏するお手本”ではなく、“最先端を知りながら立ち止まってアメリカ(アフリカン・アメリカン)ではない日本のジャズを考えてくれる存在”という、日本の多くが求めていただろうニーズを反映できる、器用さと技量を持ち合わせていたのが佐藤允彦だったから──というわけだ。
ちなみに、アルバム『パラジウム』では収録曲『スクローリン』、アルバム『パースペクティヴ』では収録曲『直立猿人』が“推し曲”だ。前者ではロック・ジャズと呼ばれるようになる1970年代の8ビートを先取りしたような疾走感を、後者ではチャールズ・ミンガスのオリジナルに漂うアフリカンなテイストを排したアレンジの妙を、それぞれ味わっていただきたい。
次回は、佐藤允彦がビバップやフリーに接する際の所感を記した文章を拾いながら、論考を進めたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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