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今月の音遊人:塩谷哲さん 「僕の作る音楽が“ポップ”なのは、二人の天才音楽家の影響かもしれませんね」
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クイーン、デヴィッド・ボウイ、デフ・レパードも絶大支持。モット・ザ・フープルが歌い続ける“ロックンロール黄金時代”
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2022.6.17
tagged: 音楽ライターの眼, モット・ザ・フープル
20世紀中盤に生まれたロックンロール/ロックは、世界で最も人気のある音楽ジャンルのひとつとなった。ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズは国境や世代を超えて愛されてきたし、エルヴィス・プレスリー、レッド・ツェッペリン、セックス・ピストルズ、ニルヴァーナ、オアシスなどは人気を誇り続ける。我々はまさに“ロックンロール黄金時代”を生きているのだ。
そして、ズバリ『ロックンロール黄金時代 The Golden Age Of Rock ‘n’ Roll』という名曲で知られるバンドがモット・ザ・フープルだ。1969年にイギリスでデビュー、その全盛期といえるラインアップは1974年までのわずか5年しか続かなかったが、彼らの音楽は世界のロック・リスナーの胸に深く刻み込まれている。
彼らがファンのハートを捉えたのはまず、高揚感を伴うロックンロールだった。『メンフィスからの道 All The Way From Memphis』『土曜日の誘惑 Roll Away The Stone』『ロックンロール黄金時代』『野郎どもの襲撃 Crash Street Kids』『ロックンロール・クイーン』などはしばしばロックンロールの賛美と“デューズ=野郎ども”の連帯を歌い上げ、ライヴ会場が一体となって盛り上がるスペクタクルだ。
そしてもうひとつの魅力は、モット・ザ・フープルの音楽に漂う“哀しみ”である。1970年代前半のイギリスではグラム・ロックが流行、アッパーなサウンドとギラギラのコスチュームが持て囃されたが、それに対して彼らの『ホナルーチ・ブギー』『野郎どもの讃歌 Hymn For The Dudes』『モット・ザ・フープル物語 The Saturday Gigs』などはほろ苦い哀愁と寂寞感をたたえており、“泣けるロック”という概念を生んだ。『モット・ザ・フープルのバラッド Ballad of Mott The Hoople(26th March 1972, Zürich)』で“ロックンロールは負け犬のゲーム”と歌う自虐感もじわっとさせるものだった。
そんな彼らの音楽に魅せられたのはファンだけではなく、第一線のミュージシャンにも彼らのファンは多い。
デヴィッド・ボウイは初期からの熱心なファンだった。人気がパッとせずバンドが解散するという話を聞きつけた彼は新たにレコード契約を取り付け、ツアーのサポート・バンドに抜擢、『すべての若き野郎ども All The Young Dudes』をプレゼントするなど多方面から支援をしている。この曲は1972年に英米で大ヒット、世代を象徴するアンセムとなり、バンドは息を吹き返すことになった。
シンガーのイアン・ハンターは筆者(山崎)とのインタビューでこう語っている。
「デヴィッドはすごく寛大で、俺たちやルー・リードに救いの手を差し伸べてくれた。もしかしたらアンディ・ウォーホルを意識していたのかも知れない。ウォーホルがヴェルヴェット・アンダーグラウンドをプッシュしたのと同様に、俺たちをプッシュしてくれたんだ。その逆に、興味の対象外である人間には見向きもしなかったけどね」
ちなみにボウイは当初『サフラジェット・シティ』をプレゼントしてきたという。ハンターは「テープが送られてきて、悪くないけどそれほどスペシャルではないと思って返事をしなかった。それで彼は自分でレコーディングしたんだ」と笑っていた。
1974年にモット・ザ・フープルのツアー・サポートを務めたのがクイーンだった。彼らはまだ若手バンドで、ハンターはフレディ・マーキュリーが「毎晩のようにステージの袖から俺たちの演奏を見ていた」と述懐している。クイーンの『シアー・ハート・アタック』(1974)収録の『誘惑のロックンロール Now I’m Here』には、街にいるのはフープルと僕だけという意味の一節もある。ブライアン・メイは彼らから「多大な影響を受けた。師匠みたいなものだった」と主張、ソロ・アルバム『アナザー・ワールド』(1998)で「メンフィスからの道」をカヴァーしている(2022年にアルバムの新装再発盤が発売された)。
ハンターは筆者にこう話している。「両バンドに共通していたのは、1960年代末のブルース・ブームからの反動だった。ブルースというとミュージシャン達が自分の足下を見ながらノロノロ演奏している音楽だった。それに対するアンチだったんだよ。ショーアップされた、生き生きとした音楽をやりたかった」
クイーンの『ボヘミアン・ラプソディー』の元ネタがモット・ザ・フープルの『マリオネットの叫び』だ!と強く主張するのがデフ・レパードのジョー・エリオットだ。モット・ザ・フープルのコアな曲を演奏するカヴァー・バンド、ダウン・アンド・アウツとしてライヴを行い、CDを発表するほどの熱心なファンである彼が家宝にしているのはファースト・アルバム『モット・ザ・フープル』(1969)の初期プレス盤だという。筆者とのインタビューで、彼はマニア特有の早口でこう語ってくれた。
「『ロックンロール・クイーン』が入るべきところに『ロード・トゥ・バーミンガム』が間違って収録されてしまっているんだ。さらに他の収録曲も別ミックスだったりする。初期ヴァージョンは5千枚プレスされたという説もあるけど、回収されてしまったものもあるし、現在存在する枚数はかなり少ない筈だ」
他にもザ・クラッシュのミック・ジョーンズはハンターが「どこにでも現れる」と呆れるほどのモット・マニアだったし、アイアン・メイデンのブルース・ディキンソンが『あの娘はイカしたキャディラック Born Late ’58』、マイケル・シェンカーを擁するコントラバンドが『メンフィスからの道』をカヴァーするなど、彼らの信奉者は多い。
1974年にハンターが脱退、1980年にいったん解散したモット・ザ・フープルだが、ファンの要望で何度か再結成。ただ、2017年のハンターのソロ来日公演中止を経て、海外でも2019年10月のモット北米ツアーがハンターの耳鳴りで中止、2020年からの新型コロナウィルス禍もあり、本格的なツアーはしばらく行われていない。
だが、「ロックンロール黄金時代は死ぬことがない。子供たちが笑い、泣く必要を感じる限り」という歌詞のとおり、モット・ザ・フープルは必ずやステージに戻ってくるだろう。その日を楽しみに待っていたい。
山崎智之〔やまざき・ともゆき〕
1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,000以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検第1級、TOEIC 945点取得
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文/ 山崎智之
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