今月の音遊人
今月の音遊人:辻󠄀井伸行さん「ピアノは身体の一部、大切な友だちのようなものです」
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前稿で、ジャズの固定化につながると思われる学習指導要領について触れた。
固定化が進む状況であるということは、ジャズのハードルを下げるどころか、上げるための外堀がどんどん埋められていることを意味する。
となれば、本稿では「ジャズのハードルを下げる」ことを論じている場合ではなく、上がるハードルにどう対処すべきかを、受け容れることを含めて論じることが必要なのではないだろうか。
なるほど、「ジャズのハードルを下げる」という論点の設定自体が誤っていたから、ハードルが上がっていくことに抗えず、無為無策に終わっていたのかもしれない。
結果として「ハードルを下げる」ための方法論を考えてみると、2つの方向性があるところへたどり着いた。
端的に言ってしまえば、ジャズを作る側の目線が、受け容れ側からなのか、送り手側からなのか、ということだ。
この2つは、まったく逆の方向性であるにもかかわらず、お互いに干渉しやすいという、厄介な要素を内包している。
単純化してこの2つを比べてみたい。
まず、ここに身長170センチの“ジャズの初心者”がいて、その前に高さ200センチの“ジャズのハードル=壁”が存在しているとしよう。
この人にとってその壁は「よじ登れないことはないかもしれないけれど、かなり労力を要しそうな“難しい対象”」だと感じるに違いない。
この人の目線で「ハードルが下がった」と感じさせる方法のひとつは、200センチよりずっと低い“新たなハードル”に変えること。
これが、受け入れ側からの目線で考える方向性ということになる。
では、送り手側からの目線で考えるとどうなるのか。
もちろん、同じように新たに“低い”ハードルを用意するという選択もあるだろう。しかし、受け入れ側が「このハードルなら越えられる」と感じる高さとの差異をなんとかできれば、結果的には同じことになるはずだ。
ということは、例えば50センチの“踏み台”をハードルの前に置くことができれば、ジャズのハードルを下げずに、受け容れ側を“こっちの世界”へ連れてくることができる。
ハードル自体は変えずに、その高さを“下がった”と感じさせることこそが、ジャズがジャズである魅力を殺ぐことなく、より多くの人が共有できる方法論となるはずだから――。
では具体的に、50センチの“踏み台”とはなにかを考えてみたい。この部分が“絵に描いた餅”では、本稿も無為無策の愚論に過ぎなくなっちゃうからね。
以下、次回。
<続>
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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