今月の音遊人
今月の音遊人:菅野祐悟さん「音楽は、自分が美しいと思うものを作り上げるために必要なもの」
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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase10)ミヨーとジョビンのサウダージ、見出されたブラジル、ボサノバの発明
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2023.10.25
tagged: 音楽ライターの眼, クラシック名曲 ポップにシン・発見, 松任谷由実, サウダージ, ミヨー, ジョビン, ブラジル, 丸山圭子, ボサノバ, 八神純子
「サウダージ」と言えば、日本ではポルノグラフィティの名曲がすぐ思い浮かぶ。哀愁のラテン調は日本人の琴線に触れる。フランスの作曲家ダリウス・ミヨー(1892~1974年)はブラジル滞在経験を基にピアノ組曲「ブラジルへの郷愁(Saudades do Brasil)」を作曲した。ポルトガル語で郷愁や懐かしさを意味する「サウダージ(saudade)」を伴ってブラジル音楽は見出され、1950年代にはアントニオ・カルロス・ジョビンらがボサノバを発明する。ミヨーとジョビンのサウダージは松任谷由実や丸山圭子、八神純子らのJ-POPへと続く。
「サウダージ」は翻訳が難しい言葉。別れた人を懐かしむ心情、あの日にかえりたい気分といったところ。ポルノグラフィティの「サウダージ」は別れの歌だが、消えゆく愛を夕日に例え、そこに「残るのがサウダージ」と歌う。単なる悲痛ではなく、一種の心地良さとしての追憶がある。サウダージはボサノバによく登場する言葉だが、この曲はボサノバではない。むしろブラジルのサンバやフォホーのリズム、演歌とロックとの融合を感じさせる。
別れは追憶の中で美しい思い出に変わる。ブラジルに惜別の念を抱いたミヨーもそうだ。南仏エクサンプロヴァンスの富裕なユダヤ人家庭に生まれたミヨーは、幼少期から演奏と作曲を手掛けた。転機は第一次世界大戦中の1917年から2年間、詩人で外交官のポール・クローデルの秘書としてブラジルのリオデジャネイロに暮らしたこと。リオの映画館で地元の作曲家エルネスト・ナザレーのピアノ演奏を聴き、ショーロやマシーシなどブラジルのポップスに目覚めた。
フランスに帰国後もミヨーはブラジル音楽にこだわり続けた。1920年、デンマークのコペンハーゲンで作曲したのが12曲から成るピアノ小品集「ブラジルへの郷愁」。曲名には「イパネマ」「コルコバード」などリオの地名が並ぶ。ブラジルの様々なシンコペーションのリズムを使いつつも、旋律は自作。調号無しの臨時記号のみで書かれ、ミヨーの音楽を特徴付ける複調や平行和音を随所に組み込んでいる。だが不協和音は控えめで、旋律は分かりやすい。約20分間の全編に渡って軽快なダンス音楽が続く。
12曲は異なる表情を見せる。第1曲「ソロカーバ」は右手がニ長調、左手が変ロ長調の複調で穏やかに始まり、遠いブラジルを北欧の地で懐かしむかのようだ。第5曲「イパネマ」は情熱的で激しい曲。第6曲「ガベーア」では平行和音を徹底。ハ長調の三和音から始まり、そのダイアトニックコードでC→Bm-5→Am→G→Amと進んで旋律を形成する。完全5度の和音の中に減5度のBm-5(シレファ)が混じり、西洋伝統の機能和声法から外れた奔放な印象になる。
若い頃のミヨーはドビュッシーやムソルグスキー、ラヴェルの音楽に傾倒した。特にドビュッシーの「弦楽四重奏曲」や歌劇「ペレアスとメリザンド」に熱中した。ブラジル渡航直前の1916年12月、ビオラ奏者としてドビュッシーの「フルート、ビオラとハープのためのソナタ」を病身の作曲家を前に私的初演した経験もある。ミヨーはプーランクやタイユフェールらと共に「フランス六人組」と呼ばれ、ドビュッシーとは一線を画す新古典主義音楽と見做されがちだが、ドビュッシーからの影響は強い。そこにブラジルやジャズの要素も加え、世界的視野で多様性の音楽を創造していった。
ミヨーはリオに滞在中、のちにブラジルの国民的作曲家になるヴィラ=ロボスとも出会った。1923年に渡仏しパリに滞在したヴィラ=ロボスは、ブラジル人を自覚し、自国の音楽を追求する必要性を感じた。以降、「ショーロス(全16曲)」(1920~29年)や「ブラジル風バッハ」(1930~45年)などブラジル音楽と新古典主義を融合した曲を書いていく。
時代は下り1950年代、ドビュッシー、ラヴェル、ヴィラ=ロボスの影響を受けたリオ出身の作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンが全く新しい音楽を発明する。サンバを穏やかで簡素にし、素朴で都会的にしたボサノバである。
1958年、ジョビン作曲、エリゼッチ・カルドーゾ歌唱の「シェガ・ジ・サウダージ(Chega de Saudade)」を収めたアルバムが発表され、続いて同年にはジョアン・ジルベルト歌唱のシングルもリリースされ、ボサノバが誕生した。ヴィニシウス・ジ・モライス作詞の日本での曲名は「想いあふれて」だが、直訳では「サウダージはもうたくさんだ」という意味。
サウダージに満ちたボサノバは、音楽史上の破壊的イノベーションの一つだ。脱力感のある囁きの歌声、シンコペーションのリズムを淡々と刻むギター、鳥のさえずりのようなフルート、控えめなドラムス、といった清新なサウンドは聴衆を魅了した。
人気は米国に飛び火し、スタン・ゲッツがジョビンやジョアン・ジルベルトらと組んで制作したアルバムが1964年の「ゲッツ/ジルベルト」。1曲目「イパネマの娘」は、2023年6月に亡くなったアストラッド・ジルベルトが歌唱で参加し大ヒットした。
ボサノバは日本のわび、さび、いきの美意識に合致し、J-POPに取り入れられていく。先駆は荒井由実(松任谷由実)の「あの日にかえりたい」(1975年)。シンコペーションのリズム、短調ながらメジャーセブンスを多用したコード進行などボサノバ色が濃厚で、それまでのフォークや歌謡曲と一線を画す。文字通りのニューミュージック、破壊的イノベーションだ。これを機に日本のポップスは洗練されていった。
丸山圭子の「どうぞこのまま」がヒットしたのは翌1976年。シティ・ポップとしてこの歌が今も注目されるのは、洗練された大人の音楽が少ない現状を示している。
さらには八神純子の「思い出は美しすぎて」(1978年)。曲がボサノバなのに加え、歌詞がサウダージそのものと思えるので、ブラジル人やポルトガル人に確かめたくなる。こうしたシティ・ポップは日本の音楽史上、一つの頂点を築いた。
1世紀前のフランス音楽から日本のシティ・ポップまでを俯瞰すると、ミヨーがいかにクラシックとポップスにまたがる巨匠であるかが分かる。ナチスが台頭する中、ユダヤ人として差別と迫害の危機に直面し、米国に亡命したミヨー(時代は異なるが、現在のパレスチナ人の苦難も見過ごせない)。南仏仕込みの明るい性格で苦難を乗り越え、生涯に約500もの膨大な作品を残した。「ブラジルへの郷愁」は多様な作品群の一部にすぎない。「私の時代がやってくる」とマーラーは言った。ミヨーの時代がやってくる。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介