Web音遊人(みゅーじん)

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase10)ミヨーとジョビンのサウダージ、見出されたブラジル、ボサノバの発明

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase10)ミヨーとジョビンのサウダージ、見出されたブラジル、ボサノバの発明

「サウダージ」と言えば、日本ではポルノグラフィティの名曲がすぐ思い浮かぶ。哀愁のラテン調は日本人の琴線に触れる。フランスの作曲家ダリウス・ミヨー(1892~1974年)はブラジル滞在経験を基にピアノ組曲「ブラジルへの郷愁(Saudades do Brasil)」を作曲した。ポルトガル語で郷愁や懐かしさを意味する「サウダージ(saudade)」を伴ってブラジル音楽は見出され、1950年代にはアントニオ・カルロス・ジョビンらがボサノバを発明する。ミヨーとジョビンのサウダージは松任谷由実や丸山圭子、八神純子らのJ-POPへと続く。

ポルノグラフィティ、悲痛ではない追憶

「サウダージ」は翻訳が難しい言葉。別れた人を懐かしむ心情、あの日にかえりたい気分といったところ。ポルノグラフィティの「サウダージ」は別れの歌だが、消えゆく愛を夕日に例え、そこに「残るのがサウダージ」と歌う。単なる悲痛ではなく、一種の心地良さとしての追憶がある。サウダージはボサノバによく登場する言葉だが、この曲はボサノバではない。むしろブラジルのサンバやフォホーのリズム、演歌とロックとの融合を感じさせる。


ポルノグラフィティ『サウダージ』(“OPEN MUSIC CABINET”LIVE IN SAITAMA SUPER ARENA 2007 ) /『Saudade(Live Ver.)』

別れは追憶の中で美しい思い出に変わる。ブラジルに惜別の念を抱いたミヨーもそうだ。南仏エクサンプロヴァンスの富裕なユダヤ人家庭に生まれたミヨーは、幼少期から演奏と作曲を手掛けた。転機は第一次世界大戦中の1917年から2年間、詩人で外交官のポール・クローデルの秘書としてブラジルのリオデジャネイロに暮らしたこと。リオの映画館で地元の作曲家エルネスト・ナザレーのピアノ演奏を聴き、ショーロやマシーシなどブラジルのポップスに目覚めた。

遠くで懐かしむミヨー「ブラジルへの郷愁」

フランスに帰国後もミヨーはブラジル音楽にこだわり続けた。1920年、デンマークのコペンハーゲンで作曲したのが12曲から成るピアノ小品集「ブラジルへの郷愁」。曲名には「イパネマ」「コルコバード」などリオの地名が並ぶ。ブラジルの様々なシンコペーションのリズムを使いつつも、旋律は自作。調号無しの臨時記号のみで書かれ、ミヨーの音楽を特徴付ける複調や平行和音を随所に組み込んでいる。だが不協和音は控えめで、旋律は分かりやすい。約20分間の全編に渡って軽快なダンス音楽が続く。


Darius Milhaud: Saudades do Brasil (complete), Marcelo Bratke, piano

12曲は異なる表情を見せる。第1曲「ソロカーバ」は右手がニ長調、左手が変ロ長調の複調で穏やかに始まり、遠いブラジルを北欧の地で懐かしむかのようだ。第5曲「イパネマ」は情熱的で激しい曲。第6曲「ガベーア」では平行和音を徹底。ハ長調の三和音から始まり、そのダイアトニックコードでC→Bm-5→Am→G→Amと進んで旋律を形成する。完全5度の和音の中に減5度のBm-5(シレファ)が混じり、西洋伝統の機能和声法から外れた奔放な印象になる。

Milhaud: Une Vie Heureuse

「ブラジルへの郷愁」「スカラムーシュ」「世界の創造」などミヨーの主要作品を収めたCD10枚組ボックスセット「Milhaud: Une Vie Heureuse」(2014年、ワーナー)

若い頃のミヨーはドビュッシーやムソルグスキー、ラヴェルの音楽に傾倒した。特にドビュッシーの「弦楽四重奏曲」や歌劇「ペレアスとメリザンド」に熱中した。ブラジル渡航直前の1916年12月、ビオラ奏者としてドビュッシーの「フルート、ビオラとハープのためのソナタ」を病身の作曲家を前に私的初演した経験もある。ミヨーはプーランクやタイユフェールらと共に「フランス六人組」と呼ばれ、ドビュッシーとは一線を画す新古典主義音楽と見做されがちだが、ドビュッシーからの影響は強い。そこにブラジルやジャズの要素も加え、世界的視野で多様性の音楽を創造していった。

ミヨーはリオに滞在中、のちにブラジルの国民的作曲家になるヴィラ=ロボスとも出会った。1923年に渡仏しパリに滞在したヴィラ=ロボスは、ブラジル人を自覚し、自国の音楽を追求する必要性を感じた。以降、「ショーロス(全16曲)」(1920~29年)や「ブラジル風バッハ」(1930~45年)などブラジル音楽と新古典主義を融合した曲を書いていく。

サウダージにあふれてボサノバ誕生

時代は下り1950年代、ドビュッシー、ラヴェル、ヴィラ=ロボスの影響を受けたリオ出身の作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンが全く新しい音楽を発明する。サンバを穏やかで簡素にし、素朴で都会的にしたボサノバである。


Chega de Saudade

1958年、ジョビン作曲、エリゼッチ・カルドーゾ歌唱の「シェガ・ジ・サウダージ(Chega de Saudade)」を収めたアルバムが発表され、続いて同年にはジョアン・ジルベルト歌唱のシングルもリリースされ、ボサノバが誕生した。ヴィニシウス・ジ・モライス作詞の日本での曲名は「想いあふれて」だが、直訳では「サウダージはもうたくさんだ」という意味。

アントニオ・カルロス・ジョビン/波

クラウス・オガーマンの編曲も冴えるボサノバの名盤「アントニオ・カルロス・ジョビン/波」(1967年、ユニバーサル)

サウダージに満ちたボサノバは、音楽史上の破壊的イノベーションの一つだ。脱力感のある囁きの歌声、シンコペーションのリズムを淡々と刻むギター、鳥のさえずりのようなフルート、控えめなドラムス、といった清新なサウンドは聴衆を魅了した。


“The Girl from Ipanema” Astrud Gilberto, João Gilberto and Stan Getz

人気は米国に飛び火し、スタン・ゲッツがジョビンやジョアン・ジルベルトらと組んで制作したアルバムが1964年の「ゲッツ/ジルベルト」。1曲目「イパネマの娘」は、2023年6月に亡くなったアストラッド・ジルベルトが歌唱で参加し大ヒットした。

洗練された大人のJ-POP

ボサノバは日本のわび、さび、いきの美意識に合致し、J-POPに取り入れられていく。先駆は荒井由実(松任谷由実)の「あの日にかえりたい」(1975年)。シンコペーションのリズム、短調ながらメジャーセブンスを多用したコード進行などボサノバ色が濃厚で、それまでのフォークや歌謡曲と一線を画す。文字通りのニューミュージック、破壊的イノベーションだ。これを機に日本のポップスは洗練されていった。


松任谷由実 – あの日にかえりたい (Yumi Arai The Concert with old Friends)

丸山圭子の「どうぞこのまま」がヒットしたのは翌1976年。シティ・ポップとしてこの歌が今も注目されるのは、洗練された大人の音楽が少ない現状を示している。


丸山圭子/どうぞこのまま

さらには八神純子の「思い出は美しすぎて」(1978年)。曲がボサノバなのに加え、歌詞がサウダージそのものと思えるので、ブラジル人やポルトガル人に確かめたくなる。こうしたシティ・ポップは日本の音楽史上、一つの頂点を築いた。


八神純子 – 思い出は美しすぎて

1世紀前のフランス音楽から日本のシティ・ポップまでを俯瞰すると、ミヨーがいかにクラシックとポップスにまたがる巨匠であるかが分かる。ナチスが台頭する中、ユダヤ人として差別と迫害の危機に直面し、米国に亡命したミヨー(時代は異なるが、現在のパレスチナ人の苦難も見過ごせない)。南仏仕込みの明るい性格で苦難を乗り越え、生涯に約500もの膨大な作品を残した。「ブラジルへの郷愁」は多様な作品群の一部にすぎない。「私の時代がやってくる」とマーラーは言った。ミヨーの時代がやってくる。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介

特集

菅野祐悟

今月の音遊人

今月の音遊人:菅野祐悟さん「音楽は、自分が美しいと思うものを作り上げるために必要なもの」

4948views

ジェフ・ヒーリー

音楽ライターの眼

ジェフ・ヒーリー、映画『ロードハウス/孤独の街』サウンドトラック完全盤が遂にリリース

750views

【楽器探訪 Another Take】演奏に集中できるストレスフリーのキイメカニズム

楽器探訪 Anothertake

演奏に集中できるストレスフリーのキイメカニズム

6433views

ピアノの地震対策

楽器のあれこれQ&A

いざという時のために!ピアノの地震対策は大丈夫ですか?

46930views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:独特の世界観を表現する姉妹のピアノ連弾ボーカルユニットKitriがフルートに挑戦!

4829views

音楽市場を広げたい、そのために今すべきこと/ジャズクラブのブッキング・制作の仕事(後編)

オトノ仕事人

音楽市場を広げたい、そのために今すべきこと/ジャズクラブのブッキング・制作の仕事(後編)

7546views

秋田ミルハス

ホール自慢を聞きましょう

“秋田”の魅力が満載/あきた芸術劇場ミルハス

5652views

東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

こどもと楽しむMusicナビ

子ども向けだからといって音楽に妥協は一切しません!/東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

11100views

民音音楽博物館

楽器博物館探訪

16~19世紀を代表する名器の音色が生演奏で聴ける!

12171views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:仕事もバンドも、常に真剣勝負!

9876views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

すべては、あの日の「無料体験レッスン」から始まった

5513views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

31113views

おとなの楽器練習記:岩崎洵奈

おとなの楽器練習記

【動画公開中】将来を嘱望される実力派ピアニスト、岩崎洵奈がアルトサクソフォンに初挑戦!

11898views

民音音楽博物館

楽器博物館探訪

歴史的価値の高い鍵盤楽器が並ぶ「民音音楽博物館」

24817views

音楽ライターの眼

連載8[ジャズ事始め]“天下の台所”が呼び込んだ“ジャズで踊る”という最先端の流行

3001views

オトノ仕事人

オーダーメイドで楽譜を作り、作・編曲家から奏者に楽譜を届ける/プロミュージシャン用の楽譜を制作する仕事

18446views

われら音遊人:Kakky(カッキー)

われら音遊人

われら音遊人:オカリナの豊かな表現力で聴いている人たちを笑顔に!

8468views

トランスアコースティックピアノ™

楽器探訪 Anothertake

音量の問題を解決し、ピアノの楽しみを広げる「トランスアコースティックピアノ」

4443views

ホール自慢を聞きましょう

地域に愛される豊かな音楽体験の場として京葉エリアに誕生した室内楽ホール/浦安音楽ホール

10931views

パイドパイパー・ダイアリー

パイドパイパー・ダイアリー

音楽知識ゼロ&50代半ばからスタートしたサクソフォンのレッスン

8140views

大人のピアニカ

楽器のあれこれQ&A

「大人のピアニカ」の“大人”な特徴を教えて!

3750views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

7068views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10466views