Web音遊人(みゅーじん)

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase33)グリーグ「抒情小曲集」、ノーウェジアン・ウッドの部屋で聴く小品、火を付ければビートルズ

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase33)グリーグ「抒情小曲集」、村上春樹「ノルウェイの森」の部屋で聴く小品、火を付ければビートルズ

ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグ(1843~1907年)といえば「ピアノ協奏曲イ短調」や劇付随音楽「ペール・ギュント」が有名だが、本領を発揮したのはピアノ小品だ。代表作は生涯書き続けた「抒情小曲集」(全10巻66曲)。長大なオペラや交響曲が権威だった19世紀後半、1曲数分の歌謡的小品で独自の世界を開いた。私生活を綴る音の絵日記は鳥の歌のようだ。ノーウェジアン・ウッド(ノルウェイの森)の部屋で聴き入るうちに深夜2時。翌朝、鳥が飛び去った部屋に火を付ければ、ビートルズの「ラバー・ソウル」が聴こえてくる。

陶器製の小さな蛙を握りしめて

フィヨルドに滝が流れ落ちるさまにも例えられるグリーグの「ピアノ協奏曲」第1楽章冒頭。ピアノが弾く下行音型は北欧の壮大で高貴な悲劇の幕開けのようだ。ワーグナーの大掛かりな楽劇が欧州を席巻した19世紀ロマン派の時代精神の中で、この協奏曲は人気を博し、グリーグの名を知らしめた。

しかし一方で、グリーグは陶器製の小さな蛙をいつも大事に握りしめているような人だった。可憐な花や蝶、小鳥や小動物、日常のささやかな出来事、祭りや民謡、小物類を愛でる精神性は日本文化にも通じる。小さなものを一級の芸術に仕上げた最たる作品群が「抒情小曲集」である。


Sviatoslav Richter plays Grieg Lyric Pieces – Op.12 No.1 ‘Arietta’

グリーグは「抒情小曲集」を20代半ばの1867年から晩年に差し掛かる1901年まで10巻に分けて出版した。順番に聴いていくと、どの曲も容易に鼻歌にできるほどメロディアスで親しみやすい。「第1巻Op.12」の1曲目「アリエッタ変ホ長調」は2分にも満たない短い曲。童謡のように単純な旋律が聴き手の気持ちを和ませる。

蝶や花びらが舞い降りるように

「北欧のショパン」とも呼ばれるグリーグだが、ピアノ小品はむしろシューマンに近い。「アリエッタ」もやはりシューマン流の下行音型で始まる。滝ではなく、蝶や花びらが舞い降りるような緩やかに下行する旋律だ。変ホ長調(E♭)とドミナントの変ロ長調(B♭)を行き来する「Ⅰ→Ⅴ→Ⅰ」のシンプルなコード進行だが、減7の和音(E♭dim7)からト短調(Gm)で結ぶ場面もあり、小さな悲しみをさりげなく差し込むところは心憎い職人技だ。


Grieg: Lyric Pieces Book X, Op. 71 – No. 7 Remembrances

「アリエッタ」の旋律は約34年を経て、1901年出版の「第10巻Op.71」の掉尾を飾る第7曲「余韻(Remembrances)」として、ワルツとなって戻ってくる。ソプラノのニーナ・ハーゲルップと結婚した頃に作った素朴な旋律を生涯大切にし、それを3拍子のしとやかなワルツにアレンジして青春時代を懐かしむ。「抒情」を冠するに相応しい小曲集の完結といえよう。

最も頻繁に演奏され人気が高いのは、1897年出版の「第8巻Op.65」の第6曲「トロルドハウゲンの婚礼の日」。この曲だけは演奏時間が7分近くに達し、グリーグの小品群の中では大作。a―b―a‘の3部形式のコントラストが鮮やかで、冗長さはない。aの部分はノルウェーの結婚祝いの歌といったところだが、曲調はシューマンの「幻想曲ハ長調Op.17」第2楽章のような行進曲風だ。グリーグはノルウェーの国民楽派の代表格と見なされているが、ドイツ・ロマン派からの影響は大きい。

BGM風にも聴けるメロディー

名盤はいくつもある。ほぼ全集に近いピアノ曲集では、「抒情小曲集」全巻や初録音の「ノルウェーの旋律(全152曲)」を含むノルウェーのアイナル・ステーン=ノックレベルグによる「グリーグ:ピアノ独奏曲集」(CD14枚組、1993~94年、ナクソス)。グリーグの多様なピアノ小品の世界を知ることができる。ゲルハルト・オピッツの「グリーグ:ピアノ独奏曲全集」(CD7枚組、93年、ソニー)は、実際には全集ではないが、ドイツの正統派ピアニストによる堅実な秀演。気紛れで即興的と思われがちな小品群の緻密な構成や構造を浮き彫りにする。

ゲルハルト・オピッツのピアノによる「グリーグ:ピアノ独奏曲全集」(CD7枚組、1993年、ソニー)

ゲルハルト・オピッツのピアノによる「グリーグ:ピアノ独奏曲全集」(CD7枚組、1993年、ソニー)

抜粋ではエミール・ギレリス盤(74年、ユニバーサル)、スヴャトスラフ・リヒテルのライブ盤(93年、デジタル・メディア・ラボ)が名高い。ノルウェーのレイフ・オヴェ・アンスネス盤(2001年、ワーナー)は細やかで癖がなく聴きやすい。田部京子の「ホルベアの時代から~グリーグ作品集~」(06年、日本コロムビア)は「ペール・ギュント第1組曲」などとのカップリングで、「抒情小曲集」はやはり抜粋だが、音の透明感と明瞭に跳ねるリズムが相まって清冽な詩境に至っている。

抒情や情感に私的に浸れるグリーグのピアノ小品は、大ホールではなく、家庭や親しい仲間の集い、あるいは2人や独りの部屋で弾いたり聴いたりするのに向く。各曲とも短くてメロディアスな「抒情小曲集」はポップスのアルバムのようでもある。多くの曲がオーケストラや様々な楽器の組み合わせで編曲されたり、BGM風にメロディーが聴かれたりもする。

ロマンチックではない歌詞

「抒情小曲集」はビートルズのアルバムに似ていないか。例えば、歌えと言われればどの曲も一部分なら歌えるし、なぜかノルウェーの名が付いた曲も入っているアルバム「ラバー・ソウル」。その2曲目「ノーウェジアン・ウッド」とは何を意味するのか。

ビートルズ「ラバー・ソウル」(1965年、EMI)

ビートルズ「ラバー・ソウル」(1965年、EMI)

アルバムに刻まれた原曲名は「NORWEGIAN WOOD(This Bird Has Flown)」。直訳すれば「ノルウェーの木材(この鳥は飛んでいってしまった)」。「エースクラウン英和辞典」(三省堂)で調べると、woodは複数形(woods)ならば「小さな森、林」だが、定冠詞無しの単数形(wood)では「(切った)木、木材、材木」。原曲名も歌詞も単数になっている。

歌詞によると、ナンパしたかされたか分からない彼女の部屋に招かれ、「いいじゃないですか、ノルウェー産の木」と言う僕(ジョン・レノン)。部屋には椅子もないから、ノルウェーの木製家具ではなさそうだ。部屋の壁や梁がノルウェー産の材木で造られているのか。ワインを飲みながら深夜2時まで話し込んだ後、彼女はベッドに、僕は風呂で寝ることに。翌朝目が覚めると鳥(彼女)は飛び去っていた。僕は火を付けて「いいじゃないですか、ノルウェー産の木」と呟く。白けたナンパ話、あるいは腹いせに部屋に放火するホラーか。

聴いて何を想像してもいい

この曲が「ノルウェイの森」と訳されて広まったのは、日本文化の抒情的な感性を示していて、それはそれでいいではないか。その辺の事情は村上春樹ファンならば誰でも知っている。「村上春樹 雑文集」(新潮文庫)で作家は、そんなことは百も承知の上で、もっと興味深い説を紹介している。「Knowing She Would(ノーイン・シー・ウッド、彼女はそうしてくれるだろうと思って)」だった曲名が、似た音感の「Norwegian Wood(ノーウェジアン・ウッド)」に変わったという説だ。公序良俗の基準に照らしての変更か。真偽のほどは分からないが、もしそうだとしたらビートルズのブラックジョークはいよいよ奥深い。

村上春樹「ノルウェイの森」(上・下、新潮文庫)とジェイ・ルービンによる英訳版「Nowegian Wood」(米ヴィンテージ)=右、ウルスラ・グレーフェによるドイツ語訳版「Naokos Lächeln(直子の笑顔)」(独btb)=左

村上春樹「ノルウェイの森」(上・下、新潮文庫)とジェイ・ルービンによる英訳版「Norwegian Wood」(米ヴィンテージ)=右、ウルズラ・グレーフェによるドイツ語訳版「Naokos Lächeln(直子の笑顔)」(独btb)=左

長編小説「ノルウェイの森」の第一章冒頭、ドイツのハンブルク空港に着陸した旅客機内でこの曲がBGMとして流れる。それはオーケストラ編曲による歌詞のないメロディーだと読める。聴いて何を想像してもいいのが音楽の素晴らしさ。原曲ではジョージ・ハリスンが北インドの撥弦楽器シタールでこの旋律をまず奏でる。その下行するミクソリディア旋法風のメロディーは、北欧の森が思い浮かぶほどにノスタルジックだ。緩やかに下行する旋律はグリーグの「アリエッタ」にも似て、素朴な美しさを湛えている。

歌詞が無くても歌になる。そこから想像が広がる。歌詞は音の響きでもあり、言葉の具体的な意味ばかりを追求すると音楽を聴き損なう。音楽は言葉を超える。切ない恋愛小説のBGMには、グリーグの歌詞の無い歌も似合う。いいじゃないですか、ノルウェイの森。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:村治佳織さん「自分が出した音によって聴き手の表情が変わったとき、音楽の不思議な力を感じます」

8921views

音楽ライターの眼

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、“本物の”『ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール』が半世紀を経て初公式リリース

2185views

楽器探訪 Anothertake

目指したのは大編成のなかで際立つ音と響き「チャイム YCHシリーズ」

11335views

ヴェノーヴァ

楽器のあれこれQ&A

気軽に始められる新しい管楽器 Venova™(ヴェノーヴァ)の魅力

2661views

大人の楽器練習機

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:世界的ピアニスト上原彩子がチェロ1日体験レッスン

17694views

小林洋平

オトノ仕事人

感情や事象を音楽で描写し、映画の世界へと観る人を引き込む/フィルムコンポーザーの仕事

2519views

荘銀タクト鶴岡

ホール自慢を聞きましょう

ステージと客席の一体感と、自然で明快な音が味わえるホール/荘銀タクト鶴岡(鶴岡市文化会館)

12182views

東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

こどもと楽しむMusicナビ

子ども向けだからといって音楽に妥協は一切しません!/東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

11099views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

専門家の解説と楽器の音色が楽しめるガイドツアー

8692views

スイング・ビーズ・ジャズ・オーケストラのメンバー

われら音遊人

われら音遊人:震災の年に結成したビッグバンド、ボランティア演奏もおまかせあれ!

6022views

『チュニジアの夜』は相当に難しいが、次回のレッスンが待ち遠しい 山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

『チュニジアの夜』は相当に難しいが、次回のレッスンが待ち遠しい

5701views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

31105views

世界各地で活躍するギタリスト朴葵姫がフルートのレッスンを体験!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】世界各地で活躍するギタリスト朴葵姫がフルートのレッスンを体験!

7977views

上野学園大学 楽器展示室

楽器博物館探訪

日本に一台しかない初期のピアノ、タンゲンテンフリューゲルを所有する「上野学園 楽器展示室」

20253views

反田恭平 - Web音遊人

音楽ライターの眼

ユニークな個性が演奏に反映し、聴き手の心をわしづかみにする反田恭平のピアニズム

11530views

オトノ仕事人

あらゆるトラブルに対応できる、優れたリペア技術者を世に送り出す/管楽器のリペア技術者を育てる仕事

6871views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:仕事もバンドも、常に真剣勝負!

9875views

reface

楽器探訪 Anothertake

個性が異なる4機種の特徴、その楽しみ方とは?

8020views

札幌コンサートホールKitara - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

あたたかみのあるデザインと音響を両立した、北海道を代表する音楽の殿堂/札幌コンサートホールKitara 大ホール

18419views

パイドパイパー・ダイアリー Vol.8 - Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

初心者も経験者も関係ない、みんなで音を出しているだけで楽しいんです!

5947views

知って得する!木製楽器の お手入れ方法

楽器のあれこれQ&A

木製楽器に起こりやすいトラブルは?保管やお手入れで気を付けること

21916views

東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

こどもと楽しむMusicナビ

子ども向けだからといって音楽に妥協は一切しません!/東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

11099views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

26227views