今月の音遊人
今月の音遊人:大江千里さん「バッハのインベンションには、ポップスやジャズに通じる要素もある気がするんです」
17207views
凄まじいパガニーニの演奏に、観衆が拍手喝采を贈る。
そんなシーンを予想して、裏切られた。彼の神がかった超絶技巧は、それをはじめて聴く人々には理解し難く、彼は嘲笑と罵声を浴びていた。金も名声もない、自堕落な日々。
そこに突然現れたのが、ウルバーニという謎めいた男だ。彼は、パガニーニを世紀のヴァイオリニストにしてやると自信満々に言う。交換条件は、ただひとつ。
「あの世で会えたら恩を返してくれ」
ウルバーニの予想どおり、母国イタリアで瞬く間に人気を博したパガニーニは、遂にイギリスへ渡る。
ウルバーニの宣伝戦略は、現代に通じるものがあっておもしろい。「悪魔に魂を売った男」「愛人を殺した罪で入れられた監獄で、G線1本でヴァイオリンを弾いていた」といったセンセーショナルな噂を流し、不道徳だと女性運動家たちが反対運動を起こすのをほくそ笑んで、さらに煽り立てる。炎上商法だ。そして、ふらりと酒場に出かけて、地元の奏者たちに混じって即興で驚愕の演奏を見せつけ、風のように去るゲリラライブを敢行。そうして前評判を沸騰させ、コンサートチケットの売り上げを伸ばしていく。
ウルバーニの扮装は、シルクハットに黒マント。時代背景を考えるとさほど違和感はないが、その妖しげな表情と相まって、どこか悪魔的な雰囲気を醸し出している。なにか仕掛けのありそうな交換条件の下に、望外な成功を超人的なペースでもたらしてくれるのも、悪魔との契約を匂わせる。
対するパガニーニは、長髪、サングラス、黒のロングコート。まるでロックンローラーだ。このちぐはぐなふたりが、霧深く薄暗いロンドンの街を歩く姿は、目の前の成功の、さらに向こうに、なにか闇が待ち受けているような予感を秘めている。それは、パガニーニが激しく一途な恋に落ちても払拭されない仄暗さだ。
観客をぐいぐいと惹きつけるストーリーをさらに膨らませているのが、それに絡まる見事な音楽。それは、パガニーニを演ずるのがスーパーヴァイオリニスト、デイヴィッド・ギャレットだからだろう。8歳ですでに国際的なオーケストラと共演し、クラシックのみならずロックとのクロスオーヴァーなどにも挑む彼の演奏は、まさに超絶技巧。デカダンスな美を感じさせる風貌も相まって、海外ではすでに大人気の彼が日本でブレイクする日も近いだろう。
そんな21世紀の現役スーパーヴァイオリニストが、伝説のヴァイオリニストを吹き替えなしで演ずる贅沢に、ぜひ聴き入ってほしい作品だ。