Web音遊人(みゅーじん)

ベートーヴェンの生誕250年に、3大ピアノ・ソナタを極める

インタビューで多くのピアニストに話を聞くなか、もっとも多く話題にのぼるのが「ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを弾きたい」ということである。彼らは若いころからベートーヴェンの3大ソナタ「悲愴」「月光」「熱情」を演奏し、ベートーヴェンの内奥へと歩みを進める。その後、自身の成長に合わせ、より深遠で内容の濃密な作品へと向かい、ベートーヴェンの人生を賭けた後期の3大ソナタ、第30番~第32番へと近づいていくのである。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタの変遷は、当時のピアノという楽器の歴史・発展と深い関係がある。初期の作品はウィーン・ワルター製が用いられ、1803年ころからはフランスのエラール製(68鍵)が使用されて音域が広がり、低音はダイナミックに高音は豊かな音色が奏でられるようになった。3大ソナタが作曲されたのはこの時代だとされている。1817年ころからはイギリスのブロードウッド製(73鍵)が用いられ、深みと表現力が増した。第29番「ハンマークラヴィーア」以後のソナタはこの特質が存分に生かされている。

ウィーン・メルカーバスタイの館(ベートーヴェン記念館)内部のベートーヴェン時代のピアノ

今回は「悲愴」「月光」「熱情」の3大ソナタに焦点を当て、作品をたどってみたい。今年のベートーヴェンイヤーにはこうしたソナタが演奏される機会が多いからである。

まず、ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」はベートーヴェンの前期の頂点をなす作品で、従来のピアノ・ソナタには見られなかった冒頭の荘重な序奏部が大きな特徴となっている。作曲者自らが与えたタイトルにも、ベートーヴェンの強い表現意志を感じ取ることができる。1797年から翌年にかけて作曲された。
第1楽章グラーヴェは独創的で長い悲愴的情緒をたたえた序奏の後、情熱的な第1主題、流動的な第2主題と続く。第2楽章は優雅な祈りの気分をたたえ、叙情的な歌をうたい上げる。第3楽章はロンド主題が何度か登場し、最後はffで強くはげしく終わる。

ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調「月光」は、ベートーヴェンの弟子であり恋人でもあったといわれる14歳年下の伯爵令嬢ジュリエッタ・グイッチャルディに捧げられている。「月光」というのはベートーヴェンが命名したものではなく、詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが「スイスのルツェルン湖の月夜の波に揺らぐ小舟のよう」と形容したことばに由来している。ベートーヴェン自身はソナタ形式ではなく、幻想曲的手法をとっている。
曲は3楽章からなり、第1楽章は3連符の神秘的で幻想的な分散和音から始まり、この序奏部が全体の性格を決定している。第2楽章はやすらぎの音楽などと解釈されるが、ベートーヴェンがここで意図したのはより新しい気分をもった音楽だった。ベートーヴェンは常に時代の先を読み、作品に斬新さを加えていったが、ここでも演奏家や聴き手の心を高揚させる新しい音楽を生み出している。リストはこれを「底知れぬ深みの間にある一輪の花」と称した。そして第3楽章は内容的に見てもピアニスティックな効果においても、この時点までに作曲されたベートーヴェンの作品のなかでもっとも充実した音楽となっている。第1主題ははげしく、第2主題は華麗な美しさが印象的だ。

ウィーン・ベートーヴェンの散歩道にあるベートーヴェンの胸像

ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」は中期のピアノ・ソナタの傑作で、ベートーヴェンにとって激情的な意味をもつヘ短調で書かれた。襲いかかる過酷な運命に敢然と立ち向かうベートーヴェンの激しい情熱に満ちたこの作品は、全楽章にわたって緻密な計算に基づく主題構成をもち、第1楽章冒頭の運命の動機が第2楽章、第3楽章にも影響を与え、全体を有機的に結びつけている。特に第3楽章は、緊迫感に満ちた終曲となっている。
第1楽章は全曲を支配する分散音型の主和音が静かに下降、そして上昇し、「運命の動機」を提示する。華麗な技巧と精緻な表現力が要求される楽章で、ppに始まりpppで終わる緊張感の高い音楽である。続く第2楽章は主題と3つの変奏曲からなる静かでおだやかな曲。各々の変奏が限りなく美しく、反復も多く行われる。アタッカで入る第3楽章はffによる減7の和音が連打され、主題が幾重にも変容し、プレストのコーダへと流れ込んでいく。最後はアルペッジョの連続により、すべての障害を乗り越えるような激しい勢いを見せて大曲の幕を閉じる。

さあ、あなたはどのソナタに興味がありますか。ぜひ、録音やリサイタルで演奏に触れてみて。きっとベートーヴェンの偉大さと進取の気性に触れ、心が高揚するはずですから。

※一枚目の写真は、ボン・ベートーヴェンホールの中庭にあるベートーヴェンのモニュメント。

伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー

特集

ユッコ・ミラー

今月の音遊人

今月の音遊人:ユッコ・ミラーさん「音楽は人の心を映すもの。だからごまかすことはできません」

3630views

音楽ライターの眼

連載5[多様性とジャズ]“スキャットの誕生”に見え隠れするジャズが求めた多様性

3342views

楽器探訪 - ステージア「ELC-02」

楽器探訪 Anothertake

持ち運び可能なエレクトーン「ELC-02」、自由な発想でカジュアルに遊ぶ

32780views

購入前に知っておきたい!電子ピアノを選ぶときのポイントとおすすめ

楽器のあれこれQ&A

購入前に知っておきたい!電子ピアノを選ぶときのポイントとおすすめ機種

27945views

大人の楽器練習機

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:世界的ピアニスト上原彩子がチェロ1日体験レッスン

18209views

小林洋平

オトノ仕事人

感情や事象を音楽で描写し、映画の世界へと観る人を引き込む/フィルムコンポーザーの仕事

3247views

グランツたけた

ホール自慢を聞きましょう

美しい歌声の響くホールで、瀧廉太郎愛にあふれる街が新しい時代を創造/グランツたけた(竹田市総合文化ホール)

7733views

こどもと楽しむMusicナビ

“アートなイキモノ”に触れるオーケストラ・コンサート&ワークショップ/子どもたちと芸術家の出あう街

7310views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

10759views

横浜レンタル倉庫(YRS)

われら音遊人

われら音遊人:目指すはフェス! 楽しみ、楽しませ、さらなる高みへ

2232views

パイドパイパー・ダイアリー Vol.7

パイドパイパー・ダイアリー

最初のレッスンで学ぶ、あれこれについて

4980views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10808views

ホルンの精鋭、福川伸陽が アコースティックギターの 体験レッスンに挑戦! Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ホルンの精鋭、福川伸陽がアコースティックギターの体験レッスンに挑戦!

11420views

民音音楽博物館

楽器博物館探訪

16~19世紀を代表する名器の音色が生演奏で聴ける!

12518views

音楽ライターの眼

音楽の“布地”を織り出す、それぞれに個性的な“糸”/鈴木優人&バッハ・コレギウム・ジャパン バッハ:チェンバロ協奏曲全曲録音プロジェクト Vol.2

6642views

オトノ仕事人

プラスマイナス0.05ヘルツまで調整する熟練の技/音叉を作る仕事

34098views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:バンドサークルのような活動スタイルだから、初心者も経験者も、皆がライブハウスのステージに立てる!

8418views

エレクトーンに新風を吹き込んだ「ステージア」

楽器探訪 Anothertake

エレクトーンに新風を吹き込んだ「ステージア」

24487views

ホール自慢を聞きましょう

歴史ある“不死鳥の街”から新時代の芸術文化を発信/フェニーチェ堺

9393views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

いまやサクソフォンは趣味となったが、最初は映画音楽だった

7095views

サクソフォンの選び方と扱い方について

楽器のあれこれQ&A

これからはじめる方必見!サクソフォンの選び方と扱い方について

59278views

Kitaraあ・ら・かると

こどもと楽しむMusicナビ

子どもも大人も楽しめるコンサート&イベントが盛りだくさん。ピクニック気分で出かけよう!/Kitaraあ・ら・かると

6554views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10808views