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今月の音遊人:林英哲さん「感情までを揺り動かす太鼓の力は、民族や国が違っても通じるものなんです」
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連載34[ジャズ事始め]自分だからこそ表現できるジャズをやるしかないと気づいた佐藤允彦が渡米するまで
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2021.4.19
オスカー・ピーターソンの目の前で本人のレコード収録音源の完コピを披露して「冷汗が流れ」た17歳の佐藤允彦が下したのは、“オスカー・ピーターソンになる”のではなく「俺をやるしかない」という「当然すぎる結論」だったが……。
「しかし俺をやるって一体どういうことなんだ?(中略)ニッポンジンがジャズをやって行けるものなのか? ジャズってなんだ? ニッポンジンって何なんだ?」(引用:佐藤允彦『すっかり丸くおなりになって…』1997年、メーザー・ハウス刊)
このような疑問を抱かざるを得なかった当時の背景を、ちょっとだけ説明しておこう。
1941年生まれの佐藤允彦が17歳だから1958年ごろのこと。
「この道に足を踏み入れた時、最先端がビーバップだったことと関わってくるのかも知れない。当時はチャーリー・パーカーが死んで間もないころで、パーカーの曲を演奏したりフレイジングを模すのはまだかなり“今日的”なことだった。ロリンズやマイルスの新しいアルバムの曲を逸早くレパートリーに取り入れれば、得意顔ができた。つまり、ビーバップは火口から噴出したばかりの溶岩のように灼熱の流動体だったのだ。それが今後どこへ流れていって、どんな形に固まるのか予想もつかぬままに追いかけていたのが我々で、ビーバップ=全ジャズだと思い込んで疑うことはなかった」(引用:同前)
ジャズのイノヴェーターにしてモダン・ジャズを創始したひとりであるチャーリー・パーカーが亡くなったのは1955年。
ソニー・ロリンズが『サキソフォン・コロッサス』(1956年)、『ウェイ・アウト・ウエスト』(1957年)、『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』(1957年)などジャズ史に残る傑作を次々と世に送り出し、マイルス・デイヴィスは大手コロムビア・レコードと契約して『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』(1956年)をリリース、映画「死刑台のエレベーター」の音楽を担当する(1957年)といったように、パーカー・チルドレンとも言えるポスト・ビバップの面々が活動期に入って注目度が増していったのが、この時期だ。
こうした“ビバップへの対立的なスタンス”は、当時のアメリカで同時多発的に発生していたから、その機運が日本の若手ジャズ・ミュージシャンたちにも少なからず刺激を与えていたのだろう。
そんななか、佐藤允彦の“ジャズへの向き合い方”に多大な影響を与えたのが、1960年代に大きな潮流となるフリー・ジャズだった。
フリー・ジャズとは、狭義では「商業主義的なポピュラー音楽に変貌したジャズを、アフリカン・アメリカンのルーツ的な音楽要素で再構築させる」というコンセプトによって演奏されるものを指す。だが彼は、“ポピュラーなジャズ”を“再構築”できるのであれば、“アフリカン・アメリカンのルーツ”という部分を置き換えることで、“俺をやる”ためのジャズの道が拓けるのではないか、と考えたのかもしれない。
「そんな……、勝手に置き換えていいの?」と思うなかれ。なんでもアリがジャズなのだから。
ということで、日本にもフリー・ジャズの嵐が吹き荒れることになった1960年代前半を“当事者”として過ごした佐藤允彦は、1966年9月に日本を離れてバークリー音楽大学へ留学する。
お気づきのように、渡辺貞夫の同大学留学とは状況も本人の心持ちもだいぶ違っていた──という話は次回。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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