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【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#013 レジェンドたちが未来を託した奇跡的セッションの記録~チャーリー・パーカー『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』編
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2023.5.18
tagged: 音楽ライターの眼, ジャズの“名盤”ってナンだ?
このアルバムについては、すでにボクの連載(連載12[多様性とジャズ]ミンガスは黒人差別というバイアスをジャズで打ち破ろうとしたのか~その1)でも取り上げていました。
改めてこの【ジャズの“名盤”ってナンだ?】で取り上げるなら、まず「このアルバムはチャーリー・パーカー名義でいいのか」というところから論を始めてみたいと思います。
というのも、ジャケットにはレーベル名の“debut records presents”、バンド名の“the Quintet”、公演(収録)場所名の“jazz at massey hall”とともに演奏者名が羅列されているだけで、実はチャーリー・パーカーの名前はないからなのです。
え?演奏者名があるならチャーリー・パーカーの名前も表記されているんじゃないの?と思うかもしれませんが、いえいえ、“ない”のですよ。
記されているのは、“charlie chan”という「誰、それ?」と思ってしまうような名前。
まあ、タネを明かせばそれがチャーリー・パーカーの偽名で、レコード会社の契約絡みのオトナの事情のためにチャーリー・パーカーという表記が使えなかったことによる苦肉の策だったわけです。
もちろん、リリース当時からそれは公然の秘密で、ジャズ・ファンのあいだではチャーリー・パーカーのかなりコンディションが良いプレイを記録した作品として知られていたから、後に契約関係がクリアになってリイシューされる際に、チャーリー・パーカー名義のアルバムになった、というわけなのです。
1953年5月15日に、カナダのトロントにあるマッセイ・ホールで開催されたコンサートのもようを収めたアルバム。
カナダの主都はオタワですが、最大の都市は同じオンタリオ州にあるトロントのほうで、そこに1894年にオープンしたのがマッセイ・ホール(メッシー劇場とも)でした。
ほかのメンバーは、ディジー・ガレスピー(トランペット)、バド・パウエル(ピアノ)、チャールズ・ミンガス(ベース)、マックス・ローチ(ドラムス)というクインテット。
ビバップの存在が世に知られるようになってすでに10余年。
アフリカン・アメリカンによるアフリカン・アメリカンのためのアフリカン・アメリカンの音楽を掲げてチャールズ・ミンガスとマックス・ローチが立ち上げたデビュー・レコードが、ビバップのオリジネーターを招いて“カナダのカーネギーホール”と呼ばれるような格式のある会場でコンサートを開いたということがすでに歴史的であり、奇跡的に全員のコンディションの良い状態の演奏が記録されていることも加わって、ジャズ史を語るうえでは欠かせない1枚になっています。
前段で「奇跡的に全員のコンディションの良い状態」と書きましたが、チャーリー・パーカーは2年後の1955年に心不全で死去、バド・パウエルも1950年代後半から精神状態の不安定さが増し、フランスに拠点を移したあと帰米した1966年に結核、栄養失調、アルコール依存症が原因で死去したため、この歴史的なメンツが揃うことはもちろん、鑑賞と評価に堪えうる演奏が可能であったラストチャンスだったのではないか、と思わせる内容であることが“名盤”たるゆえん。
本稿冒頭で「このアルバムはチャーリー・パーカー名義でいいのか」と疑義を呈したわけですが、それにはもうひとつ、「チャーリー・パーカーが弱いんじゃないか」という疑義を個人的に抱いていたことも影響しています。
収録曲の『オール・ザ・シングス・ユー・アー』のソロなんか、もう美しいのひと言しか出ない名演ではあるものの、全体的に統制された、1950年代ハード・バップの“お手本”となるべく意図されたような行儀よさが、どうにも引っかかるんです。
一方で、1993年に75歳で亡くなるまで変化するジャズの荒波を乗り切ったディジー・ガレスピーの演奏こそが本作の白眉と言ってよく、彼がいちばんの年長でもあったから、“トランペット目線”で本作を聴き直してみるのも一興じゃないかと思ったりするわけです。
さて、リイシュー後の名義問題はさておき、1950年代にジャズを担おうと立ち上がったチャールズ・ミンガスとマックス・ローチが本作で示した編成を含めた演奏スタイルは、先述のようにハード・バップのお手本として広く認知され、それ以降のジャズの“規範”とも言うべき存在になったのではないかと考えています。
というのも、1954年にアート・ブレイキー(ドラムス)がホレス・シルヴァー(ピアノ)とともにクインテットで初代のザ・ジャズ・メッセンジャーズを結成したのも、1955年にマイルス・デイヴィスが第1期の“黄金の”と呼ばれるクインテットを結成したのも、このマッセイ・ホールでのコンサートに刺激されたからだった──。
それはつまり、1953年に彼らが出した音がビバップ創世期の10年前を振り返るものではなく、来たるべき“1950年代のジャズ”に向けたものだったことを意識して聴かなければならない、ということなのです。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
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