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今月の音遊人: 上野耕平さん「アクセルを踏み続けることが“音で遊ぶ”へとつながる」
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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase55)芥川也寸志生誕100周年、横溝正史の祟りの村に美しい抒情、洒脱で洗練された響き
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2025.9.9
tagged: 音楽ライターの眼, クラシック名曲 ポップにシン・発見, 芥川也寸志, 八つ墓村
「八つ墓村」は美しい村である。凄惨な連続殺人事件を扱った横溝正史の探偵小説の舞台にもかかわらずだ。2025年に生誕100周年を迎えた芥川也寸志(1925~89年)の映画音楽「八つ墓村」を聴けば、ロケ地の岡山県の山間部や鍾乳洞を訪ねたくなる。芥川の音楽はなぜ架空の祟りの村に美しい抒情を添えるのか。そこには東京人の洒脱なセンスがある。師・伊福部昭の民族的な要素と、理知的で洗練された響きが融合している。
1990年創設の芥川作曲賞(現・芥川也寸志サントリー作曲賞)は、最も「清新かつ将来性に富む」日本の新進作曲家の作品に贈られる。前衛的で実験的な作品だけが対象ではない。芥川自身の作品も親しみやすく分かりやすい音楽だった。「交響三章」「弦楽のための三楽章《トリプティーク》」「交響曲第1番」「エローラ交響曲」「チェロとオーケストラのための《コンチェルト・オスティナート》」、映画音楽では「地獄門」「地獄変」「八甲田山」「八つ墓村」。
1970~80年代にクラシック音楽を聴いていた人にとって芥川は親しみのある作曲家だった。NHK総合テレビの教養番組「音楽の広場」で芥川は黒柳徹子とのコンビで1977~84年に司会を務めた。NHK教育テレビ「N響アワー」でも1984~88年に順次、ドイツ文学者の小塩節、西洋史学者の木村尚三郎らとの鼎談形式で司会を担当し、視聴者の教養への憧れと知的好奇心を喚起した。
音楽はみんなのものという信念を持ち、積極的にマスメディアに登場し、クラシック音楽の普及に努めた。幅広い聴衆を念頭に置いた作曲活動は、必然的に芥川の作品を誰もが親しめる分かりやすい音楽にしていった。そして多くの人々が最も耳にした芥川作品が「八つ墓村」をはじめとする映画音楽だろう。
芥川也寸志生誕100年の2025年は各地で記念公演が開かれている。近代日本文学史上、最重要作家の一人、芥川龍之介の三男として東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)で生まれた。生地である北区の北とぴあ・さくらホールでは7月20日、「芥川也寸志生誕100年記念コンサート」が開催された。藤岡幸夫指揮オーケストラ・トリプティークらによるこの記念すべきコンサートのプログラムにも「交響三章」などと並び映画音楽「八つ墓村」が入っていた(筆者はチケットを購入できず聴けなかった)。
横溝正史の「八つ墓村」を探偵小説だからといって侮ってはならない。文章は簡潔で読みやすい。音感とリズム感が行き渡った名文であり、音読したくなる。磨き上げられた文章は、夏目漱石や芥川龍之介、梶井基次郎の小説、寺田寅彦や幸田文、五木寛之の随筆などと並び現代国語の芸術、職人肌の「文学」を実感させる。
横溝は戦前の昭和モダニストのたしなみとしてクラシック音楽をこよなく愛した。横溝の文章が音楽的な心地よい響きを持つ理由はそのあたりか。芥川龍之介にもストラヴィンスキーをはじめクラシック音楽のSPレコードの遺品があった。彼らの息子たちが作曲家(芥川也寸志)や音楽評論家(横溝亮一)として活躍したのも頷ける。
横溝正史には終戦後間もない地方を舞台にした「金田一耕助シリーズ」の探偵小説に傑作が多い。神戸出身で東京に居を構えた都会人の横溝は、長野県での療養や岡山県での疎開の体験から地方を題材にした小説を書けたのだろう。長野県の財閥家を扱った「犬神家の一族」、岡山県の山村の素封家をめぐる「八つ墓村」、瀬戸内海の島を舞台にした「獄門島」は最たる作品。恐るべき犯罪を描きつつも、そこから浮かび上がるのは、戦争を経てなおも連綿と続く家や村の風習や文化様式、伝統的な美意識、日本の美しい原風景である。
野村芳太郎監督・橋本忍脚本の映画「八つ墓村」(1977年)は時代設定を現代に移し、ホラー色を強めて一大ブームとなり、芥川の映画音楽も一般に知れ渡った。同年公開された森谷司郎監督・橋本忍脚本の映画「八甲田山」でも芥川は音楽を担当した。いずれも抒情的な美旋律と曲調を持つ。とりわけ「八つ墓村」の「道行のテーマ(青い鬼火の淵)」は美しい。それは芥川龍之介や横溝正史らが愛聴したクラシック音楽のエッセンスを凝縮し、日本の唱歌・歌謡風の要素を盛り込んだ音楽だ。
「道行のテーマ」からはブラームスのピアノ曲「間奏曲イ長調Op.118-2」、ドヴォルザークの「交響曲第8番ト長調Op.88」のワルツ風の第3楽章(ト短調、アレグレット・グラツィオーソ)などに通じる曲調が聴こえてくる。信濃国高遠藩(現・長野県伊那市高遠町)の藩士だった伊沢修二が明治維新後の1879年、同年開設された音楽取調掛(のちの東京音楽学校、東京芸術大学音楽学部)の担当官になり、唱歌集の編纂や西洋音楽の移入に乗り出したのが日本の近代音楽史の始まり。当時の欧州はロマン派と国民楽派の全盛期。ブラームスやドヴォルザークは今なお日本で好まれる作曲家である。ロマン派の抒情的な曲調に唱歌・歌謡風の親しみやすい旋律を盛り込めば、人気が出るのは当然だ。
芥川也寸志が1943年に入学した東京音楽学校は、伊沢が初代校長だった黎明期を経て瀧廉太郎、山田耕筰、信時潔ら世界的な作曲家を多数輩出していた。日本は西洋音楽を短期間に吸収し、独自の音楽を創造した。芥川が師事したのは橋本國彦。モダンで理知的、都会的な作風で知られる。芥川は橋本の作風と相性が良かったはずだ。しかし学徒動員を経て終戦後、伊福部昭に師事したのが転機となった。北海道出身の伊福部は独学の作曲家。アイヌ文化、民謡、祭囃子、雅楽などに共鳴した民族色の強い日本独自の作風だった。この伊福部流と橋本流が融合し、洗練された民族色という芥川独特のサウンドが生まれた。
誤解を恐れずに言えば、芥川の音楽は日本が誇るアニメや劇画に似ている。難解そうな学術書もマンガにすれば明快で親しみやすくなる。しかも描画の技法がきわめて高度ときている。芥川の「交響曲第1番」を聴けば、そこにショスタコーヴィチやプロコフィエフら20世紀のシンフォニストの作曲技法が教科書的に理知的に盛り込まれ、しかも分かりやすくデフォルメされ、劇画的にエモーショナルで親しみやすくなっていることが分かる。伊福部からの影響である反復と律動のオスティナート技法も音楽を分かりやすくする。日本独自のクラシック音楽を発展させ、国内外に広く知らしめた芥川の功績は大きい。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
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