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ジョン・コルトレーン編 vol.5|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?
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2017.5.11
tagged: 音楽ライターの眼, ジャズ, ジョン・コルトレーン, マイルス・デイヴィス, 踏み絵
ジョン・コルトレーンが“ジャズにとっての踏み絵だった”と主張するからには、彼がそれまでのジャズにはない異次元のアプローチを具現していたことを指摘しなければならない。
レコーディングの記録を調べてみると、コルトレーンは1956年10月にマイルス・デイヴィスのマラソン・セッションに参加している。そのあと、11月の終わりにタッド・ダメロンらと6曲を収録してから、次のレコーディングは1957年3月22日まで空いている。このあいだに、フィラデルフィアでの療養があったものと思われる。
コルトレーンは麻薬やアルコールの悪癖を絶ち、再びニューヨークに戻って活動を始める。そんな彼に手を差し伸べた者がセロニアス・モンクのほかにもいたのだ。このことは、1957年の春先からジョン・コルトレーン名義のアルバムが作られるようになったことを見ればわかるだろう。これは、ジャズ・シーンの一部ではこの時期に、コルトレーンが“変わった”、つまり“Something new”をやらかしそうだという評判になっていたことを意味する。
それがすなわち、コルトレーンを“ジャズの踏み絵”たらしめる根拠に関係するので、少し詳しく触れてみたい。
この時期の自分のアプローチについて、コルトレーン自身が語るインタビューが残っている。「Jazz Journal」誌1962年12月号に掲載されたValerie Wilmerの「Conversation with Coltrane」という記事だ。
ここで彼は、再びマイルス・バンドに戻った1957~59年ごろに考えていたアイデアとして、1つのコードに対して3つのコードを使ってハーモニーを成立させる方法を試していたと言う。例えばこうだ。シー・セブンのパートに対してイー・フラット・セブン、エフ・シャープ・セブン、エフを重ねながらメロディアスな旋律を表現するというもの。
この“重ねる”というアプローチによって、コルトレーンは“シーツ・オブ・サウンド”と呼ばれる彼独自の表現方法を完成。マイルス・デイヴィスがモード手法によってコードの制約を超えようとしたのとは正反対とも言える方向で、コードからの解放を具現させてしまった。
その明らかな“証拠”が、1959年に収録されたジョン・コルトレーン名義のアルバム『ジャイアント・ステップス』だった。
<続>
▶ジョン・コルトレーン編vol.1~vol.4|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
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