今月の音遊人
今月の音遊人:姿月あさとさん「自分が救われたり癒やされたりするのは、やはり音楽の力だと思います」
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連載11[ジャズ事始め]美貌の奇術師率いる天勝一座が運んできたジャズの香りとフィリピン・ルート
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2020.4.28
関西に進出し、「ジャズ・バンドなら井田一郎」と言わしめるまでにシーンを席巻した井田一郎は、大正天皇の崩御による服喪の影響で次々とダンスホールが廃業を余儀なくされた大阪を早々に見限り、1928年(昭和3年)3月初旬に仲間を引き連れ、東京へ戻ってきていた。これをきっかけに、大阪を中心としたダンスホール=ジャズの勢いは下火となり、ミュージシャンの流出は加速してしまう。
井田が東京で結成したいくつかのバンドのひとつで出逢ったのが、前稿で挙げた2名、飯山茂雄とリノ・カブロである。
ドラムスの飯山は、天勝一座のバンドの一員として上京していたところをスカウトされた。
天勝一座というのは、女性奇術師として一世を風靡した 松旭斎天勝 が率いたエンタテインメント・ユニット。こうした“一座”は、さまざまな演目をそろえて各地を巡業する営業スタイルをとっていた。活動範囲は、国内のみならず海外にまで及ぶほどだったから、プログラムもヴァリエーションが豊富だったものと思われる。
1924年(大正13年)1月に横浜港を出立した天勝は、ホノルル経由でサンフランシスコに上陸。ここを起点にアメリカ興行をスタートさせ、1年以上をかけてカナダを含めた全米各地を巡った。
天勝がジャズ史に名を遺している理由は、一座がアメリカ公演を行なった際、当時の最先端ダンス音楽だったジャズの演奏をそのプログラムに加えたから。
現地でミュージシャンを調達しながら興行を続けた一座は、外国人メンバーを引き連れて帰国すると、1925年(大正14年)6月末に東京の帝国劇場で凱旋公演を行なって、日本におけるジャズの火をさらに大きく燃え上がらせる役割を果たしたのである。
この一座が帰国後に国内巡業をしていた際に参加していたのが飯山。アメリカ帰りの一座で専属を務めたことを考えるとジャズのウデも確かで、そこを井田に見込まれたに違いない。
井田はほかにも、「ジャズ・バンドなら井田一郎」の名声に恥じないメンバーを集めるために奔走しているが、そのなかにサックスのリノ・カブロもいた。
リノ・カブロは上海から流れてきたフィリピン出身のミュージシャンで、当時の日本には彼と同じような経歴のミュージシャンが多くいたと思われる。
そのころの事情を示すものとして、1928年に録音された、天野喜久代の歌う「月光価千金」というレコードを例に挙げてみたい。
天野は帝劇歌劇部出身で、浅草オペラなどを活躍の場とした、日本ジャズ黎明期のジャズ・シンガーのひとり。バックを務めたのは“コロムビア・ジャズバンド”という名の匿名的なメンバーで、おそらくジャズ演奏に自信のある市中のプロを引き抜いて結成したスタジオ・ミュージシャン・バンドだと思われる。
この“コロムビア・ジャズバンド”のメンバーのひとりが(そのソロ演奏の特徴から)フィリピンからハワイ、日本へと渡ってきたヴィディ・コンデではないかとされている。バンド自体もフィリピン出身者の割合が多かった。
ちなみに、ヴィディ・コンデは弟のグレゴリオとレイモンドとともに三兄弟でバンドを結成するなど、第二次世界大戦の前後に日本のジャズ・シーンを大いに賑わせたミュージシャンである。
こうした記録が残っているのは、リノ・カブロのように上海を経由したり、ヴィディ・コンデのようにハワイヘ渡って日本にやってきたフィリピン出身のミュージシャンがそれほど珍しくなくなっていたからなのだけれど、次回はフィリピンと日本のジャズを結ぶ“基軸”になったと思われる上海の話に移っていきたい。
参考:『日本ジャズの誕生』瀬川昌久、大谷能生(青土社)
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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