今月の音遊人
今月の音遊人:May J.さん「言葉で伝わらないことも『音』だったら素直に伝えられる」
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ヘルベルト・フォン・カラヤンの父エルンストは、1868年にウィーンに生まれ、1905年に13歳年下のマルタ・コスマチと結婚した。彼らの間にはヴォルフガング、ヘルベルトというふたりの男の子が生まれている。
長男のヴォルフガングは、1906年7月21日生まれ。1歳9カ月年上のこの兄のあとをヘルベルトはいつも追い、兄のすることはすべて自分でもしてみたいと願うような子だった。
ヴォルフガングが5歳でピアノを習い始めたとき、ヘルベルトはすぐに自分もレッスンを受けたいと両親に告げ、「ダメ、ダメ。お前はまだ小さいんだから」といわれると、こっそり陰に隠れてレッスンを聴き、すぐに真似して弾いてみるようになる。
やがてレッスンが許されるようになったヘルベルトは、即座に兄に追いつき、ヴォルフガングはそれを見てヴァイオリンに転向した。ヴォルフガングはウィーン工業大学を卒業後、オルガニストや合唱指揮者としての仕事に携わり、工業の分野でも名をなしている。
一方、4歳半で聴衆の前でモーツァルトの「ロンド」を演奏して神童と騒がれ、家ではいつも家庭音楽会が開かれているという環境のなかで育ったヘルベルトは、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院に進み、ピアノ、和声学などを学び、作曲と室内楽をベルンハルト・パウムガルトナーに師事する。
パウムガルトナーは偉大な指揮者ブルーノ・ワルターに師事した人物で、指揮者、作曲家、音楽学者としての顔ももち、モーツァルテウム音楽院の院長も務めた人だった。彼はカラヤン家の大切な客人であり、ヴォルフガングとヘルベルトが幼いころはふたりの父親のような存在でもあり、よき友でもあった。
モーツァルトの研究家でもあったパウムガルトナーから、カラヤンは多くを学んでいる。そして彼の勧めで指揮者になることを決意し、ウィーン音楽アカデミーに入学、ウィーン国立歌劇場に通い詰めて著名な指揮者たちから大きな影響を受ける。当時は、クレメンス・クラウス、フランツ・シャルク、リヒャルト・シュトラウスら、そうそうたる指揮者がタクトを振っていた。
1929年、カラヤンはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビューする。プログラムはチャイコフスキーの交響曲第5番、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」で、大成功を収めた。この成功により、カラヤンはウルム市立劇場の指揮者に迎えられることになる。21歳になるかならないかの若き指揮者カラヤンは、ドナウ川上流の小さな町の劇場に赴任し、ここでオペラの指揮を開始した。
この劇場でオペラの演目を増やしていったカラヤンは、市民の家を回ってチケットをさばき、歌手たちのパート練習につきあい、人々のなかに溶け込もうと必死に努力したが、当時のウルム市民は劇場に足を運ぶものの、指揮者との接触には距離を置いた。人々とのコミュニケーションが苦手なカラヤンは、次第に孤立していく。
伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー