今月の音遊人
今月の音遊人:上原彩子さん「家族ができてから、忙しいけれど気分的に余裕をもって音楽と向き合えるようになりました」
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そもそも本稿は、1963年3月に録音されたジョン・コルトレーンの、行方知れずだった音源が、2018年6月にリリースされたことが発端となっていた。
1963年といえば、イギリスから大西洋を越えて、アメリカにもビートルズ旋風が来襲していたはず。
「コルトレーンって、ビートルズには興味がなかったのかな?」
という疑問が、フッと浮かんでしまったのだ。
というのも、彼が繰り返し演奏していた曲の1つ「マイ・フェイヴァリット・シングス」はミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」(1959年にブロードウェイで初演)の挿入曲として人気を博していたものだし、その直近にリリースしていた『バラード』(1962年)はジャズ・スタンダード曲を集めたもの。
つまり、世の中でヒットしている曲に興味をもたないわけではない、いやむしろ積極的に自分の音楽的な世界へ取り込んでいこうという意識をもっていたアーティストというイメージが強かったから、そんな疑問が浮かんで、調べ始めたというわけだった。
コルトレーンに関しては世界中に研究家がいて、データをインターネット上にアップしてくれている。そのおかげで「コルトレーンは生涯一度もビートルズ・ナンバーを録音していない」という検証が可能になり、この発端を単なる話のマクラに終わらせることなく展開することができた。
ということなので、振り出しに戻ってみることにしよう。
もちろん、コルトレーンがビートルズに興味がなかった、もしくは嫌いだったというのであれば、仕方がない。しかし、そういった事実は見当たらず、むしろ音楽を追求しようとするのであれば、旋風を巻き起こしているビートルズの音楽を無視するはずがない、という考えのほうが自然だろう。
なによりも、コルトレーンとビートルズは互いに遠い存在などではなく、ある接点でつながっていたとも考えられるからだ。
その接点とは、ラヴィ・シャンカール。
シタールというインドの古典的な楽器を世界的に広めた第一人者の彼とビートルズ(特にジョージ・ハリスン)の関係についてはすでに周知されているので、触れないでおこう。
一方のコルトレーンとは、1960年ごろ、ニューヨークを訪れていたラヴィ・シャンカールがコルトレーンの演奏を聴きに来たことに始まる交友が続いていたようだ。
ちなみに、1965年に生まれたコルトレーンの次男には“ラヴィ”という名が付けられている。
1965年といえば、ビートルズが『ラバー・ソウル』を制作した年。収録曲の「ノルウェーの森」は、ポピュラー音楽で初めてシタールを使用したとして知られている。ジョージ・ハリスンが演奏するシタールを指導したのは、ラヴィ・シャンカールだった。
これらの事柄を“ニアミス”と呼べるかといえば、さすがに「無理~!」と言わざるをえない。
実際にこのころのコルトレーンの興味はインド音楽よりもアフリカ音楽へと向けられ、その演奏は西洋音楽の規範からどんどん離れていく。
つまり、ポピュラー音楽のヒット・チャートに君臨するビートルズとは交わることのできない位置で、自分の音楽を追求していたということだ。
とはいえ、この2つの音楽の“依るべきもの”はまったく無関係なわけではなく、少なくとも同じ方向に視線を向けていた(ことがある)のを垣間見ることができた。
コルトレーンやビートルズの最後期あたりを、こんなふうに視点を変えて聴いてみると、なにか発見があるかもしれない。
見つけたら、またご報告します。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
tagged: ロック, ジャズ, ビートルズ, ジャズとロックの関係性
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