今月の音遊人
今月の音遊人:辻󠄀井伸行さん「ピアノは身体の一部、大切な友だちのようなものです」
3276views
小曽根真はジャズピアニストの枠を越えている。ガーシュウィンはもとより、ショスタコーヴィチやモーツァルトのピアノ協奏曲などクラシック音楽の定番曲も近年盛んに演奏してきた。「目指すはジャズとクラシックの融合ではなく共存」と一貫して主張。クラシックでは原曲を尊重し本質に迫る。となれば2020年2月26日、ヤマハホールでの「小曽根真 スペシャル・コンサート」はジャズの領域を広げる挑戦だったのだろう。前半の自作に加え、後半は即興の演奏を次々に繰り広げたからだ。「作曲家即ピアニスト」の創造力が、作曲の現場を魅惑のステージに変えた。
ドビュッシーの印象派風とビル・エヴァンスの叙情性を融合させたような、でもやっぱり小曽根独自のおしゃれなジャズ。そんなデビュー作「クリスタル・ラブ」から始まった。分散和音と美しい旋律が絡まり合ってアラベスクを描く。エコーを効かせた音色が夢見心地でライトな気分を生み出す。
「今日はヤマハホールの誕生日」と小曽根は語り、リニューアルオープン10周年記念日の公演の意義を強調した。ピアノはヤマハ「CFX」。「ここ15、16年ほどクラシックを弾いていますが、このピアノはパワフル。自分の弱いところを全部カバーしてくれた」と絶賛。そして弾いたクラシックが3曲目のショパン「マズルカ第13番イ短調作品17の4」。でも冒頭から何か違う。なかなか主題が出てこない。これは即興のアレンジだ。半音階のアドリブを随所に取り入れている。「マズルカ幻想曲」とも呼ぶべき作曲であり、ジャズだ。
自作では4曲目「ララバイ・フォー・ラビット」が感動を呼んだ。演奏の途中で離席し戻った客に冗談めかして小曽根が「今日一番いい曲でした」と言ったほど。ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」を思わせるモダンなワルツだが、どこか懐かしいシャンソンにも聞こえ、彼の音楽的教養の幅広さを実感させる曲だった。
後半の中心は即興演奏。「ウェルカム・トゥ・マイ・コンポージング・ルーム(私の作曲部屋へようこそ)」だ。まずは1音ずつ、長調、短調、半音階の入り交じった「音列」を弾く。音列に基づく現代音楽のようなものを期待させる。そこから始まったのは全音音階風の音楽で、ドビュッシーやバルトーク、あるいはムソルグスキーの「禿山の一夜」などを想起させながら多様に展開する。ブルースや教会音楽、サティ風もあった。こうして即興は全体で2つの組曲を構成した。
シェーンベルクは即座の模倣が自身の独創性を生んだと認識していたという。作曲家でピアニストの高橋悠治は「作品自体がノートであることもありうる」と語ったことがある。断片を書き込んだノートのような、即興の作曲過程が作品になる。まさに小曽根のジャズだ。アンコールはラヴェルの「ピアノ協奏曲」第2楽章。清楚で甘美な旋律が会場を潤す。この日最も原曲に近い演奏だったが、ジャズの領土の最果てに彼の創造力の可能性を聴く思いがした。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
日本経済新聞社文化部デスク。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。専門誌での音楽批評、CDライナーノーツの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介