Web音遊人(みゅーじん)

バッハからショパンへ、大人のロマンティシズム/牛田智大 ピアノ・リサイタル

もう「天才少年」と呼ぶべきではないが、早熟なのは変わらない。2020年9月9日、ヤマハホールでの「牛田智大 ピアノ・リサイタル」。20歳のピアニストが大人のロマンティシズムを聴かせた。

バッハの「イタリア風協奏曲 ヘ長調 BWV971」から始まり、あとはすべてショパンの曲。作家ジョルジュ・サンドと過ごした中・後期の作品群だ。パリ、マヨルカ島、ノアン。2人の情熱的な恋の舞台に思いをはせながら演奏を楽しめる。

1曲目のバッハ「イタリア風協奏曲」は、第1楽章が遅めのテンポで始まり、意外にも重厚な響きだ。ヴィヴァルディのような協奏曲を鍵盤楽器1台で表現する試みなので、合奏と独奏の色分けが大事だ。端正で力強いが、独奏風の部分にもう少し軽やかさがあってもいい。

しかし第2楽章で牛田の非凡な才能を知る。静かで緩やかな旋律を研ぎ澄まされた音色で奏でる。ショパン風バッハとでも呼ぼうか。一音一音を繊細なタッチで紡ぐ。一転して第3楽章は揺るぎなくも速いテンポで、南国風の祝祭感を醸し出す。こうした静と動、明と暗が1曲に凝縮された作品、感情の起伏が大きいショパンやリストらロマン派音楽にこそ彼の真価が発揮されそうだ。

そう思ったところでショパン作品が始まった。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」に心酔し、革新的な「24の前奏曲 作品28」を書いたショパン。この2人をつなぐ演目の流れは自然だ。「夜想曲第16番 変ホ長調 作品55の2」は遅いテンポで強弱の幅を広く取り、雄大に響かせる。感情の高まりをこれほど男らしく鳴らすピアニストは久しぶりだ。

興奮冷めやらないうちに大作「ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調『葬送』作品35」に入る。第3楽章「葬送行進曲」が秀逸だ。確信に満ちた行進曲のリズム、憧れを帯びた表情豊かな響きが印象に残った。

後半の「幻想曲 ヘ短調 作品49」「バラード第4番 ヘ短調 作品52」「舟歌 嬰ヘ長調 作品60」の3曲は完成度が高かった。特に「幻想曲」は強弱法を大胆に効かせ、壮大なスケールを伴いながら情緒の変化をきめ細かく描く。高音域の旋律も美しく歌い上げた。

「バラード第4番」では、ワルツ風の悲しげな旋律を気品のある澄んだ音色で弾いた。終結部は技巧を意識させず、劇的な頂点を自然に築いて聴き手の感情を揺さぶる。最後の「舟歌」はおおらかな波の表現だ。ヴェネツィアのゴンドラではなく、地中海の大海原へと勇ましく漕ぎ出す愛の舟である。

アンコールは「24の前奏曲」から「第15番 変ニ長調『雨だれ』」。甘美な旋律をしめやかに鳴らし、低音のリズムを厳格に刻む。サンドとのマヨルカ島、ショパンが敬愛したバッハへと思いが戻る円環を築いて終演した。

ショパンの音楽からは、優れた演奏だといつも、ポーランドの没落貴族の末裔が語り継ぐような、遠くて古い土地からの切なくも高貴な響きが聞こえてくる。牛田にはそれがある。早熟のピアニストは近い将来、成熟と老成の音楽も聴かせてくれるはずだ。

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
日本経済新聞社文化部デスク。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。専門誌での音楽批評、CDライナーノーツの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介

特集

今月の音遊人:大西順子さん「ライブでは、練習で考えたことも悩んだことも全部捨てて自分を解放しています」

今月の音遊人

今月の音遊人:大西順子さん「ライブでは、練習で考えたことも悩んだことも全部捨てて自分を解放しています」

12455views

音楽ライターの眼

【優待チケット】「奇跡の相性」で結ばれたデュオが追求するオーボエ×ギターの可能性/広田智之&大萩康司インタビュー

3110views

楽器探訪 Anothertake

存在感がありながら他の楽器となじむシンフォニックなサウンドが光る、Xeno(ゼノ)トロンボーンの最上位モデル

5853views

引っ越しのシーズン、電子ピアノやエレクトーンの取り扱いについて

楽器のあれこれQ&A

引っ越しのシーズン、電子ピアノやエレクトーンを安心して運ぶには?

115962views

バイオリニスト石田泰尚が アルトサクソフォンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】バイオリニスト石田泰尚がアルトサクソフォンに挑戦!

13127views

マイク1本から吟味して求められる音に近づける/レコーディングエンジニアの仕事(前編)

オトノ仕事人

マイク1本から吟味して求められる音に近づける/レコーディングエンジニアの仕事(前編)

15785views

ホール自慢を聞きましょう

ウィーンの品格と本格派の音楽を堪能できる大阪の極上空間/いずみホール

7247views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

14671views

浜松市楽器博物館

楽器博物館探訪

世界中の珍しい楽器が一堂に集まった「浜松市楽器博物館」

32167views

われら音遊人:「非日常」の充実感が 活動の原動力!

われら音遊人

われら音遊人:「非日常」の充実感が活動の原動力!

8329views

山口正介 Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

マウスピースの抵抗?音切れ?まだまだ知りたいことが出てくる、そこが面白い

6068views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

26340views

今、注目の若き才能 ピアニスト實川風が ドラム体験レッスン!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】今、注目の若き才能 ピアニスト實川風が ドラム体験レッスン!

8990views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

10535views

音楽ライターの眼

【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#047 コテコテのメロディに芸術性を与えた“下支え”の賜物~アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ『モーニン』編

1077views

小見山優子さん

オトノ仕事人

ゲーム音楽は勝ってはいけない、負けてはいけない。大切なのは調和──/ゲームコンポーザーの仕事

1304views

われら音遊人:音楽仲間の夫婦2組で結成、深い絆が奏でるハーモニー

われら音遊人

われら音遊人:音楽仲間の夫婦2組で結成、深い絆が奏でるハーモニー

7457views

Pacifica

楽器探訪 Anothertake

「自分の音」に向かって没入できる演奏性と表現力/エレキギター「Pacifica」

1560views

アクトシティ浜松 中ホール

ホール自慢を聞きましょう

生活の中に音楽がある町、浜松市民の音楽拠点となる音楽ホール/アクトシティ浜松 中ホール

15161views

パイドパイパー・ダイアリー

パイドパイパー・ダイアリー

贅沢な、サクソフォン初期設定講習会

5671views

楽器のメンテナンス

楽器のあれこれQ&A

大切に長く使うために、屋外で楽器を使うときに気をつけることは?

56400views

こどもと楽しむMusicナビ

オルガンの仕組みを遊びながら学ぶ「それいけ!オルガン探検隊」/サントリーホールでオルガンZANMAI!

9224views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

26340views