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連載24[ジャズ事始め]1950年代中頃に穐吉敏子を失望させた日本のジャズ・シーンの風潮とはなんだったのか?
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2020.11.17
前稿で、穐吉敏子が「日本のジャズに対する反応に失望した」と書いた。
穐吉敏子が渡米した前後=1950年代中頃および1960年代初頭の日本でジャズが受け容れられていなかったのであれば、彼女の失望についてもあまり深く考えずに済んだかもしれない。
ところが、1950年代中頃も1960年代初頭もともに、日本ではジャズが熱狂的に受け容れられていたことが記録として残されている。
つまり、穐吉敏子は単純に「日本でジャズを生業としていても仕方がない」と、マーケットの薄さに失望して渡米したのではないということだ。
彼女の失望はそれぞれ、1950年代中頃はスタイルの違い、1960年代初頭は日本人がジャズを演奏することに対する認識の低さ──と、原因が異なっていた。
1950年代中頃の日本のジャズ・ブームは、1945年の終戦と同時にアメリカからの音楽輸入が解禁となったことに起因している。
そのため、お手本は1940年代のヒット・チャートを飾っていたスタイルであり、具体的にはスウィングと呼ばれるものだった──と思っていた。
ボクはこのあたりのジャズの線引きについて、それまで書かれたものを鵜呑みにして漠然と「そういうものだ」と理解したつもりでいたのだけれど、いわゆるスウィングの代表的なベニー・グッドマン、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラーといったアーティストたちが遺した音源を聴くと、ビバップに匹敵する芸術性があって、穐吉がこれを追求に値せずと打ち捨てたことはなんだかしっくりこなかったのだ。
それが最近、野川香文『ジャズ音楽の鑑賞』(シンコーミュージック・エンタテイメント刊)という、1948年に出版された“日本初のジャズ評論集”の復刻版を読んでいて、そのモヤモヤを晴らしてくれるかもしれないキーワードを見つけることができた。
“スウィート・ジャズ”というサブ・ジャンルがそれだ。
1920年代中頃に注目されるようになったスウィート・ジャズは、ラジオの普及とあいまって全米へ広まり、この後のおよそ10年にわたって“黄金期”と呼ばれるほどの隆盛を極めることになった。ポール・ホワイトマンを代表格とするそのスタイルは、スウィングが台頭する1930年代半ばあたりから勢いを失っていったが、いわゆる“わかりやすく大衆受けのいい音楽”として、アメリカ文化を象徴するものであったことは想像に難くない。
戦後、日本人が“アメリカのジャズ”として親しんだのは、戦前の面影を遺したこのスウィート・ジャズのほうであり、日本のミュージシャンはそれをお手本にすることで、ムーヴメントを巻き起こすことができたのではないだろうか。
それはつまり、日本のミュージシャンたちは生活の糧とするために、スウィングやビバップのような芸術性よりも大衆受けする音楽を優先したことを意味し、それが穐吉敏子の失望につながっていたと考えれば腑に落ちる。
穐吉敏子は“生活の糧”ではなく“芸術性”を選ぶために渡米した。ところが、凱旋した彼女を新たな失望が襲うことになる。その“原因”については次回。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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