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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase1)ベートーヴェン「25のスコットランド民謡Op.108」楽聖が編曲した英語のフォークソング、コールドプレイを予感
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2023.6.2
tagged: 音楽ライターの眼, ベートーヴェン, 25のスコットランド民謡, ピアノ・レッスン, コールドプレイ, クラシック名曲 ポップにシン・発見
ベートーヴェンの音楽を聴く楽しみの一つに英語の歌がある。スコットランドやアイルランド、ウェールズなど英語圏の民謡の編曲だ。英国のジョージ・トムスン出版社の依頼によってベートーヴェンは1806~20年頃の間に180曲近い民謡を編曲したが、英国各地の民謡だけで130曲ほどある。小遣い稼ぎのためのアルバイトといわれ、ベートーヴェンの全作品の中でも最も軽視されてきた分野だろう。しかし『25のスコットランド民謡』には作品番号(Opus)「Op.108」を付けており、本人は軽く見ていなかったと思われる。ポップで郷愁を誘うフォークソングの数々は親しみやすく、のちのコールドプレイのような英国ロックをも予感させる。
ベートーヴェンに関する書籍は多いが、民謡編曲に触れているものは少ない。そもそも声楽曲について書かれている本もあまりない。人気の高い『交響曲第9番』(第九)に声楽が取り入れられているにもかかわらず、歌曲や合唱曲は推薦リストの最後尾に置かれがちだ。彼は器楽の作曲家であり、単純な音型を巧みに展開させて交響曲や弦楽四重奏曲を書いたからこそ偉大という通念があるようだ。美しい旋律を持つ歌の作曲家ではないのだから、声楽曲を聴く必要はない、という意見さえある。本当にそうなのだろうか。
民謡編曲の中から『25のスコットランド民謡 Op.108』を聴いてみよう。CDは少ない。旧東独のドイツ・シャルプラッテン音源による9枚組CDボックスセット『ベートーヴェン知られざる名曲集』(独エーデル・クラシックス)には全25曲通しで入っている。1972年録音。レナーテ・クラマーのソプラノ、インゲボルク・シュプリンガーのメゾソプラノ、エーバーハルト・ビュヒナーのテノール、ギュンター・ライプのバリトン。彼らの独唱や重唱をエヴァ・アンダーのピアノ、ラインハルト・ウルブリヒトのヴァイオリン、ヨアヒム・ビショフのチェロによるピアノ三重奏が伴奏する編成。このほかホルスト・ノイマン指揮のライプツィヒMDR放送合唱団員が加わる曲もある。ピアノ伴奏の通常の歌曲(リート)とは異なり、様々な編成で色彩感を変えながら25の民謡が続く趣向を凝らしている。
1曲目の『音楽と恋と酒』はト長調のうきうきした気分で始まる。ヴァイオリンがケルト民俗楽器のフィドルを模したトリルや装飾音を入れて伴奏する。ファーストポジションで容易に弾けるフィドル風のフレーズを使ってケルティックな雰囲気を出しているのだろう。
2曲目の『日没(サンセット)』の旋律を聴いた人は少なからずいるはずだ。英国の作曲家マイケル・ナイマンが『日没』の旋律を使ってジェーン・カンピオン監督の1993年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『ピアノ・レッスン』の音楽を書き、サウンドトラックがヒットした。その原曲とも呼びたくなるベートーヴェンの編曲は、郷愁とセンチメンタリズムを感じさせるイ短調の名曲である。歌詞はスコットランドのロマン主義文学を代表するウォルター・スコット。ピアノ伴奏に加え、ヴァイオリンとチェロが哀愁を帯びた細く薄いハーモニーを添えて、歌を引き立てる。そよ風のように軽やかで涼しげな編曲は秀逸だ。なぜもっと演奏され歌われないのか。
『日没』の高貴な哀愁は心に刺さる。そこには映画『ピアノ・レッスン』からの連想も働く。映画では19世紀、スコットランドからニュージーランドへと娘を連れて渡った女性の再婚と、原住民マオリ族に同化した別の男性との恋愛が描かれる。一方、ウィーンで活動していたベートーヴェンは渡英を夢見ていたといわれる。不滅の恋人アントーニエ・ブレンターノと結ばれるのならば、行先は英国だったろうとの推察もある。ドイツ生まれの楽聖が恋人との逃避行先に英国を想定していたと考えれば、興味がわいてくる。ドイツやオーストリアから見れば、英国は北寄りとはいえ西方の「日没」の地でもある。
もっとも、ベートーヴェンが民謡編曲に作曲家の威信をかけて取り組んだという形跡は見当たらない。やはりアルバイトの域を出ない仕事だったのかもしれない。だからと言って彼の民謡編曲が聴き手にとってつまらないわけではない。それどころか、『25のスコットランド民謡』のポップなアレンジからは1世紀半後の英語の歌さえ聴こえてくる。20世紀後半に台頭する英国やアイルランドのロックを予感させるのだ。
ビートルズからデヴィッド・ボウイ、エルヴィス・コステロ、U2、ニュー・オーダー、ミューズに至るまで、英国・アイルランド各地の民謡を思わせる曲がけっこうあるのではなかろうか。ロックが自国の民謡の影響を受けているのは当然かもしれない。そこにベートーヴェンがしっかり関わり、自由や愛を体現するロックを後押ししてくれている、という感覚は新鮮だ。
ベートーヴェンの民謡編曲に触発され、21世紀英国最大のロックバンド、コールドプレイのアルバム『X&Y』をまた聴いている。分かりやすい旋律、陰影と広がりのあるギターのエフェクトとシンセサイザー、郷愁を誘うファルセット交じりの英語の歌。中でも『Talk』は名曲だ。歌とギターが同じシンプルな旋律で呼びかけ合ったりユニゾンで進んだりするところなどは、ベートーヴェンの編曲によるスコットランドやアイルランドの民謡の直系を実感する。
アルバム「X&Y」の1曲目「Square One」は、ベートーヴェンが好んだハ短調(Cマイナー)で作られている。単純な音型を使って劇的な展開をみせる「主題労作」の手法もベートーヴェンに通じるところがある。音楽の既成概念を壊す革新性も同じだ。最も盛り上げるべき部分で軟弱とも思えるファルセットに変えたり、1オクターブ下げたりして歌う。大声でシャウトして説得力を持たせようとする従来のロックバンドとは真逆の音作りで、常識を覆し、独自のオルタナティヴ・ロックを確立した。
ロックが現代世界において最も影響力と人気のある音楽であることは間違いない。ポップスも視野に入れて音楽史を俯瞰すれば、ベートーヴェンとロックがつながる。『第九』だけでなく、ベートーヴェンの歌をもっと聴こう。次回以降、クラシックの隠れた名曲、忘れられ、あるいは俗曲と見做され軽視されてきた傑作を、ポップに“シン(真、新、芯!)発見”していく。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
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