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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase30)フォーレ「ピアノ四重奏曲第2番」、レクイエムへのアルペジオ、センチメンタルな陽水
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2024.8.22
tagged: 音楽ライターの眼, クラシック名曲 ポップにシン・発見, フォーレ, 井上陽水
2024年はフランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845~1924年)の没後100年。代表作は「レクイエムニ短調Op.48」だが、その前の「ピアノ四重奏曲第2番ト短調Op.45」は室内楽の新境地を開いた。ピアノのアルペジオ(分散和音)に乗って弦が歌う海風のような旋律は、はるかな見知らぬ国への一人旅に似て切ない。ピアノをギターに替えれば、「つめたい部屋の世界地図」から「帰郷(危篤電報を受け取って)」に至る井上陽水のアルバム「陽水Ⅱセンチメンタル」が聴こえる。フォーレと陽水がレクイエムへのアルペジオでつながる。
フォーレにはピアノ四重奏曲とピアノ五重奏曲がそれぞれ2つずつある。「ピアノ四重奏曲第2番」の完成は1886 年。翌1887年に作曲を始めた「レクイエム」と並ぶ中期の傑作だ。背景を調べると、「ピアノ四重奏曲第2番」完成の前年の1885年7月に父が死去。自らの指揮でパリのマドレーヌ寺院で「レクイエム」を初演した1888年1月16日のほんの2週間余り前の1887年12月31日に母を亡くしている。憂愁と鎮魂の2つの傑作は父と母の相次ぐ死の間に書かれたため、両親を亡くす悲しみと予感があると想像したくなる。
しかし作曲家本人の言説によると、両親の死は直接には作品に影響していないようだ。ジャン=ミシェル・ネクトゥー著「評伝フォーレ――明暗の響き」(大谷千正監訳、日高佳子・宮川文子訳、新評論)では、「レクイエム」が特定の人や事を意識して書いた作品ではないとの知人への手紙を引用し、父母の死による影響を否定している。実際、「レクイエム」は母の死の数カ月前から書き進められ、聖堂区の一信者の葬儀に際して初演された。
とはいえ、聴き手には想像の自由がある。「ピアノ四重奏曲第2番」と「レクイエム」が両親を相次ぎ亡くすスプリーン(憂鬱)の時期に書かれたのは事実であり、それらの音楽は憂愁と鎮魂の波間に揺れている。この時期にフォーレ独自の世界が開いた。その出帆が「ピアノ四重奏曲第2番」。第1楽章では潮騒のようなピアノの32 分音符のアルペジオに乗って、弦がユニゾンで第1主題を大らかに歌う。大海原へと漕ぎ出す舟を想起させる。
アルペジオに乗って進む弦の緩やかな旋律は、のちのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」第1楽章を想起させる。だがフォーレの魅力は独特の転調や旋法風の音階にある。どこへ運ばれていくか予想もつかない壮大なト短調の第1主題は、半音階を交えながらうねるように続く。ト長調やハ長調の和音、ホ長調の減7和音(Edim7)を刻む経過句を経て、第2主題はト長調の主音(ト音)を中音に読み替えて変ホ長調で可憐に歌う。この絶妙な転調は現代のポップスにも通じる歌謡的な美しさを醸し出す。
「ピアノ四重奏曲第2番」はフォーレ自身による解説が乏しいため、謎に満ちている。第1楽章では波のように繰り返すアルペジオから海をイメージしたくなる。2024年に生誕250周年を迎えるドイツ・ロマン主義の画家フリードリヒの「海の月の出」を連想する人もいるだろう。速いテンポの第2楽章スケルツォでは、またもやピアノのアルペジオに乗って弦楽が超然とした勇壮な旋律を奏でるが、これは第1楽章の第1主題の変形である。嵐の海に鳴り渡るセイレーンの歌声か。
だがネクトゥーの前掲書によると、第3楽章アダージョ・ノン・トロッポについては、フォーレ自身の妻宛ての手紙に説明があり、南仏アリエージュ県フォア近郊のモンゴジで幼い頃、夕暮れ時に聞いた鐘の音の思い出から発想を得たという。フォーレの故郷アリエージュ県はスペインやアンドラと国境を成すピレネー山脈に近く、海がない。第3楽章のフォーレ屈指の美旋律はト音が主調のフリギア旋法で、ト短調と変ホ長調の間を漂いつつ郷愁を誘う。魂の帰郷を歌っているのか。
フォーレはフランス近代音楽の代表格だが、メンデルスゾーンやブラームスに通じるドイツ風の室内楽曲が多い。端正なソナタ形式に曲が収まっているのだ。それでいてアルペジオを伴奏にした旋律が、型からあふれ出すほどの広大な雰囲気を漂わせる。管弦楽で言えば、型通りなのに長大なブルックナーの交響曲群だろう。だがフォーレの室内楽は長すぎない。
アルペジオは時間が広がる印象を聴き手に与える。「レクイエム」でもそうだ。第3曲「サンクトゥス」の弦とハープによるアルペジオは聖なる天上の高み。第7曲「イン・パラディスム」のオルガンのアルペジオは永遠の楽園。アルペジオ伴奏はのちの「ピアノ五重奏曲第1番ニ短調Op.89」と「同2番ハ短調Op.115」の各第1楽章でより洗練されて現れる。それらはミニマル・ミュージックの反復音型とは異なり、旋律に寄り添い、旋律美を支える。
ここでオーケストラのチューニングから始まる1972年のアルバム「陽水Ⅱセンチメンタル」が聴こえてくる。オーケストラがイ音に加えドミナントのホ音を強めて休止すると、ギターがイ短調のアルペジオを弾き出す「つめたい部屋の世界地図」。なぜかフォーレから連想される。ギターと歌が海と旋律になって水平線へと広がる。はるかな見知らぬ国へ一人旅をするならば、船で行くのがいいと歌う。その国とはどこだろう。一人で行くのは誰か。アルバムは「東へ西へ」「夜のバス」、浴衣を着たかわいい妹が登場する「夏まつり」など、感傷と郷愁の歌を経て、「帰郷(危篤電報を受け取って)」に至る。
フォーレと陽水は音楽史的には関係ない。時代も国も異なり、交流もなければ影響もない。だがフォーレの「ピアノ四重奏曲第2番」「レクイエム」と陽水の「センチメンタル」には郷愁と鎮魂の普遍性が共通項としてある。どんな人にも父母の最期という人生最大の知らせだけはきっと届く。不幸とはいえ、親族や故郷のありがたみが身に染みるときでもある。
フォーレと陽水のレクイエム的な作品は悲劇ではなく、感傷と郷愁、鎮魂だ。血吐を見せて泣くホトトギス、君の家までもうすぐだと歌う「帰郷(危篤電報を受け取って)」でさえも、ギターの穏やかなアルペジオを伴って聴き手を癒す。フォーレと陽水の音楽は、家路のように、安らぎと大切な人の思い出をもたらす。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
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