今月の音遊人
今月の音遊人:松井秀太郎さん「言葉にできない感情や想いがあっても、音楽が関わることで向き合える」
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連載4[ジャズ事始め]日本のジャズの夜明け前には小唄をアレンジした軍楽隊の演奏が人気を博していた
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2020.1.16
散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする──。
明治4年(1871年)に公布された散髪脱刀令によって、江戸時代には一般的だった男髷(額から頭頂部までを剃り上げ、残った髪を束ねて後頭部に髷を作る髪型)が旧弊とみなされ、短く切ってなでつけただけの“散切り頭”が、維新を象徴するスタイルとして広められることになった。
明治政府の西欧化施策は政治にとどまらず、庶民の生活をも巻き込んだ文化全般に及ぶものだった。
それは音楽も例外ではない。
今回は、そうした西欧化の流れのなかで、日本にはどんな音楽が流布していたのかを簡単にまとめ、ジャズがどのような音楽的下地において芽生えることになったのかを考える前説としたい。
前回も触れたように、江戸末期の日本人が最初に体験した“西洋音楽”は、軍楽隊の演奏だった。維新後、政府は軍備とともに軍楽隊員の養成にも力を入れる。
ちなみに、専門の教育機関としては官立の東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)や現在の宮内庁楽部にあたる機関を挙げることができる。だが、前者は昭和に入るまで声楽と鍵盤楽器および弦楽器の指導のみがなされたし、後者に入部できるのは事実上は旧楽家の子弟に限られるなど、体格審査と学力検査の合格者に入隊を許した軍楽隊とは比ぶべくもない門の狭さだった。
軍楽隊で管楽器を中心とした演奏技能を習得する隊員は、毎年50〜60人単位で退役者と入れ替わったというから、多くの“軍楽隊出身”の人たちが“文明開化の大衆音楽”を担うべく供給されていたことは想像に難くない。
彼らは軍楽隊でどんな曲を演奏していたのだろうか。明治期にはまだ洋楽系の大衆音楽が広まっておらず、邦楽系の長唄や箏曲で人気のあった曲を五線譜に書き起こして演奏したと伝えられている。「越後獅子」「鶴亀」「六段」「千鳥の曲」などがそうだ。また、「高い山」や「かっぽれ」といった、民謡やお座敷で歌われる小唄などの俗曲もレパートリーに含まれていた。
軍楽隊の演奏が話題を呼ぶようになると、あちらこちらから出演依頼が来るようになり、軍楽隊だけではそのニーズに応じられなくなる。
さらに、明治10年代には公的な組織の儀礼だけでなく、民間でも音楽隊を呼んで式典を華やかに飾るようになっていた。これに対応するため、退役者を集めて団体を設立し、ホテルでの定期演奏やイヴェントの派遣演奏を請け負うようになっていたのである。
こうした依頼が増加した背景には、日清・日露戦争により出征軍人を送迎する機会が増えたことが理由のひとつとして挙げられる。
さらに民間の職業バンドの活躍の場は、明治30年(1897年)に日本初上映されるや瞬く間に全国へ広がっていった活動写真館にも及んだ。
こうしたバンド人気に目を付けた大手の百貨店などは、広告宣伝のために自前の音楽隊を結成する。その先駆は、明治42年(1909年)に「11歳から15歳の少年12人を募集」して結成された三越少年音楽隊だ。
募集年齢からもわかるように、この音楽隊はすでに演奏技能を習得した退役者などを雇うのではなく、イチから鍛え上げようというものだった。
邦楽のアレンジが多かったとはいうものの、音楽隊による演奏に親しむことは、当時の人たちにとって西洋文明を身近に感じる機会であり、それは国策にもかなったものだった。
このように、市中に新しい音楽が広まるためのハードルがかなり下がっていたころ、太平洋を渡ってやってきたのが、ジャズだった。
参考:『ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ』(阿部勘一、細川周平、塚原康子、東谷護、高澤智昌)青弓社、2001年
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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