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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase62)ラヴェル「クープランの墓」、18世紀フランス音楽への敬意、友人の思い出、伝統と革新の均衡

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase62)ラヴェル「クープランの墓」、18世紀フランス音楽への敬意、友人の思い出、伝統と革新の均衡

2025年はフランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875~1937年)の生誕150周年。ラヴェルといえば華麗な管弦楽法の「ボレロ」が人気だ。しかし華やかさだけがラヴェルではない。第一次世界大戦中に書かれたピアノ組曲「クープランの墓」は、明快な古典形式と斬新な和声を併せ持つ。18世紀フランス音楽へのオマージュであり、戦死した友人らへの思い出に捧げている。伝統と革新の均衡というラヴェルの音楽を体現している。

古風な形式と汎全音階主義

全6曲から成る「クープランの墓」の第1曲「前奏曲」は、16分の12拍子で延々と細やかで速い16分音符の分散和音が続く。モニク・アースをはじめラヴェルを得意とした名ピアニストらの録音を聴くと、分散和音は一音一音が明快に響くが、そこから醸し出される異国情緒の不思議な和声は何なのか、西洋伝統の機能和声から分析するのは難しい。言語明瞭意味不明といったところか。妙に古風な形式の中で全開する魔法のような和声や旋法、リズムがラヴェルの魅力なのだろう。

「前奏曲」の調号は♯1つで、曲調からしてホ短調と思える。最初の2小節から成る主題は、1小節目がホ短調(Em7)の五音音階、2小節目が装飾音を除けばイ短調(Am)の五音音階、装飾音を含めればAm9の響き。これが2回繰り返されるが、白鍵のみを使う。続く経過的な部分もコードネームであえて示すと、Am9→Bm(-9)→Am11……。10小節目で初めてホ短調の和声的・旋律的短音階の導音(嬰ニ音=D♯)が登場するが、その小節の和音は左手がF#m7/B、右手がC#sus4-5/D#であり、主和音へと解決する属和音とは言い難い。


Ravel: Le tombeau de Couperin, M. 68: I. Prélude

1910年代前半までにはシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの「新ウィーン楽派」が無調性の強い音楽を書いていた。では同時代のラヴェルはどうか。和音や旋律ははっきり聴こえるが、それを分析しようとすると、従来の和声進行の理論からかけ離れた奇抜な音を使っていることが分かる。それでも聴いて心地よく、旋律を口ずさめたりもする。これは調性音楽の基本である長調と短調の構成音(ダイアトニックコード、ダイアトニックスケール)、五音音階、あるいは古い教会旋法などを駆使しつつ、機能和声の制約を回避する汎全音階主義(パンダイアトニキズム)の作曲法だ。聴きやすい調性音楽にもかかわらず、非常に精緻で前衛的な手法なのである。

ドビュッシーとの本質的な違い

ラヴェルと同時代のフランスの作曲家といえば、13歳上のクロード・ドビュッシー(1862~1918年)がいる。2人は「フランス印象主義音楽」で括られがちだが、本質は異なる。2人とも新ウィーン楽派のような無調へは向かわず、汎全音階主義といえる手法を好んだ。しかしドビュッシーが「前奏曲集」をはじめ構成や形式でも自由度の高い音楽を作曲したのに対し、ラヴェルは伝統的な形式を重視し、明快で秩序立った作品を書いた。

ただしドビュッシーにも「弦楽四重奏曲」や晩年の「チェロソナタ」「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」「ヴァイオリンソナタ」など、従来形式に回帰した作品がある。とはいえ、明快な形式へのこだわりはラヴェルのほうが強い。古典形式と汎全音階主義、伝統と革新の際どい均衡がラヴェル独自の魅力を生み出す。ラヴェルの手法はプーランクやタイユフェールら次世代のフランス新古典主義の作曲家たちへと受け継がれていく。

古典形式と汎全音階主義によるラヴェルの音楽はフランス的だ。ワーグナーの後継としてのマーラーやリヒャルト・シュトラウスら後期ロマン派、前衛としての新ウィーン楽派という同時代のドイツやオーストリアの音楽に対抗しうる性格を備えている。当時、フランスはドイツ、オーストリアと対立し、第一次世界大戦へと至る政治状況にあった。1870~71年普仏戦争の屈辱的な敗戦後、ナショナリズムを強めたフランス第三共和政の全盛期に育ったラヴェルは愛国的な作曲家だった。

第一次世界大戦で兵役志願

ラヴェルは「クープランの墓」を第一次世界大戦で従軍する前の1914年に構想し、復員後の1917年に集中して書き上げた。仏南西部バスク地方の故郷シブールの隣町サン・ジャン・ド・リュズで母とバカンスを過ごしていた1914年8月、ドイツがフランスに宣戦布告した。愛国心が強い39歳のラヴェルは軍隊への志願を決意した。書きかけの「ピアノ三重奏曲」を遺書のつもりで短期間に仕上げた。ラヴェルは華奢で虚弱だった。最初の入隊は体重が足りずかなわなかった。空軍への志願も実現せず、翌15年、輸送兵としてようやく入隊が認められた。

ラヴェルが所属する砲兵連隊が派兵されたのは激戦地ヴェルダン。トラックを運転して戦争物資を輸送する任務に就いた。音楽ではなく砲弾の爆発音と銃声を聞き、防毒マスクを携帯して運転し続ける日々。ラヴェルは戦死こそしなかったが、病気になり復員した。戦時中、バスク人の血を引く最愛の母を亡くした。多くの友人や知人も戦死した。「クープランの墓」を作曲した背景にはこのような状況があった(第一次世界大戦の非人間的で凄惨酸鼻な大量殺戮の現実を思い知り、戦争を絶対にしたくなくなるために、ドイツの作家レマルクの小説「西部戦線異状なし」を読み、1930年の同名の米国映画を観たほうがいい)。

「クープランの墓」の6曲の冒頭にはそれぞれ戦死した友人らに対し、「~を偲んで、à la mémoire du(de)~」という言葉が書かれてある。第1曲「前奏曲」はラヴェルのピアノ連弾および管弦楽曲「マ・メール・ロワ」をピアノ独奏用に編曲したジャック・シャルロ中尉、第2曲「フーガ」はジャン・クルッピ少尉、第3曲「フォルラーヌ」はバスクの画家ガブリエル・ドゥリュック中尉、第4曲「リゴドン」は幼なじみのピエールとパスカルのゴーダン兄弟、第5曲「メヌエット」は家族ぐるみの付き合いだったジャン・ドレフュス、第6曲は「クープランの墓」の初演者マルグリット・ロンの夫であるジョゼフ・ドゥ・マルリアーヴ大尉に捧げられた。

古代ギリシャ彫刻のように永遠

「クープランの墓(Le Tombeau de Couperin)」の「トンボ―(Tombeau)」は一般に「墓」と訳されるが、「墓碑」のことであり、18世紀フランス・バロック時代の詩的で音楽的なオマージュ、個人を追悼する器楽曲を意味する。「クープラン」とはフランスのバロック音楽を代表する作曲家フランソワ・クープラン(大クープラン、1668~1733年)のことだが、象徴的に名を冠したまでで、18世紀フランス音楽への敬意を示している。このため各曲には18世紀の舞曲や楽曲形式の名前が付いており、そうしたリズムや形式を実際使っている。

6曲は追悼曲であるはずなのに、感傷や悲哀が前面に出ることはない。戦争への高揚と熱狂、そして数々の凄惨な死を体験し、安易なロマン主義や情緒を拒否しているようにも聴こえる。墓碑はいかなる戦火にも屈しない硬質な石でなければならない。それぞれの石を精緻な音で彫琢し、古代ギリシャ彫刻のような永遠の古典芸術に仕上げることが、敬愛する人々や音楽への最高のオマージュなのだろう。


Ravel: Le Tombeau de Couperin, M.68: 2. Fugue

第2曲「フーガ」は確かに感傷的でしみじみとした曲調である。だがそれ以上に、研ぎ澄まされた音色で主唱による4度のカノン、対唱の反行形によるストレット(主題のかぶせ)など精緻な書法が繰り広げられ、幾何学的な美しさが際立つ。第3曲「フォルラーヌ」は速い6拍子の舞曲に基づいているのに、追憶の時間のような静けさが漂う。

フランス音楽防衛国民同盟を拒否

第4曲「リゴドン」では冒頭の主題でハ長調もしくはイ短調自然短音階の構成音のみを使いながら、短2度や長2度を含む奇抜な和音を打ち込み、従来の長調や短調には聴こえない斬新な響きを獲得している。第5曲「メヌエット」はまさに古風で典型的なトリオ付きメヌエットであり、全曲の中で最も和声進行が分かりやすい。メヌエットの主題も可憐で美しい。中間部ではト短調のトリオの主題がト長調に転調し、その上にメヌエットの主題が被さってくるなど、さりげなく技巧的にも凝っている。


Le tombeau de Couperin: V. Menuet

最後の第6曲「トッカータ」は全曲中で最も難曲だろう。最後の2小節を除き延々と高速の16分音符を連打し続ける。しかも随所に同音連打が現れ、疾走感を高める。ロンド・ソナタ形式で、調性は比較的聴き取りやすいながらも斬新であり、ホ短調から半音下の嬰ニ短調、再びホ短調になり、最後にホ長調に転調する。高速なリズムは第1曲「前奏曲」の速い分散和音と対称を成し、全編をシンメトリー構造にして締め括る。

戦火の中でフランス音楽の堅固な伝統形式は守られた。新たな響きを獲得しつつ前進もした。「クープランの墓」はドイツ=オーストリア音楽に十分に対抗しただろう。しかしラヴェルは1916年、著作権が切れていないドイツとオーストリアの音楽の上演を禁止するフランス音楽防衛国民同盟への参加を拒否した。ラヴェルは自国に影響を与えてきたワーグナーやシェーンベルクらの音楽に敬意を払っていた。フランス音楽が世界一流であり続けるためには、敵国の優れた音楽も聴くべきだと確信していた。フランスの愛国者ラヴェルの自由な精神が見てとれる。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
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