今月の音遊人
今月の音遊人:亀田誠治さん「音楽は『人と人をつなぐ魔法』。いまこそ、その力が発揮されるべきだと思います」
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2001年の春まだ浅き日のこと。
ボクは、あるレコーディングを取材する機会に恵まれた。
場所は、東京・信濃町にあったソニー信濃町スタジオ。
いまはもう跡形もなくなってしまったこのスタジオがジャズ史に遺した業績を語り始めると、また半年ほどのシリーズになってしまうので、今回は割愛。
しかし、実際に見ることができた2日間のレコーディングが、その業績を裏付けるものであるとともに本稿の趣旨に沿うものだと考えるので、先に進みたい。
そのレコーディングは、ピアノとドラムスのデュオで予定されていた。
ピアノは、1960年代から商業音楽の世界で作品を数多く発表して頭角を現わし、70年代以降は自身のバンドを結成するなど、ジャズ・アプローチを前面に押し出した活動で日本のジャズ・シーンにおける強烈な牽引力となった渋谷毅。
ドラムスは、1970年代前半の山下洋輔トリオ時代に桁外れの起爆力と繊細な表現力を併せもった希有なリズム・クリエイターとして世界的な注目を浴び、以降はマイペースながらも渋谷毅とはまったく異なる角度で日本のジャズ・シーンを牽引する森山威男。
日本ジャズ界のなかではかなり離れたポジションに位置していた(と思っていた)両巨頭が顔を合わせることで“なにかが起きるのでは!”という期待感が、このオファーとして具現したのだろう。
日本を代表する超一流のインプロヴァイザー同士のデュオなのだから、破綻はもちろん、凡作に堕することもないという考えが、その期待を担保していた。
しかし、前述のように2人の個性、すなわち音楽的なアプローチ(もしくは“イディオム”と呼ばれる共通認識)にはかなり隔たりがあり、2人でひとつの作品を(お互いに満足できる形で)完成させることができない可能性も少々、いや、かなりあったはずだ。
ジャズには、異文化をあえて吸収することによって、表現芸術としての体(てい)を整えてきた歴史がある。そのため、“イディオム”が違っていても気にしない、あるいは、むしろなにか“変化”が起きることを期待する風潮が強かったりする。
この風潮をボクの新デュオ論では“旧習”として位置づけ、“当たり”すなわち“変化の発生率”がとても低い、効率の悪い企画だと判断せざるをえないと考えていた。
なによりも、ミュージシャン自身がこの非効率さを感じていたからこその、新デュオ論的展開だったはずなのだ。
結果的に、渋谷毅と森山威男によるアルバム『しーそー』は、それぞれのイディオムを予想外にうまく融け合わせることができた名作として、歴史に刻まれる1枚になった。
つまり、“旧習”における珍しい“当たり”だったわけだ。
この時点で、このデュオをボクの新デュオ論の素材として用いる理由は消えてしまったはずだった。
しかし、この2人のデュオには、話の続きがあったのだ。
『しーそー』レコーディングの2日目、前日の不調(実は初日にオーケー・テイクがほとんど録れず、まさに“破綻”しそうな空気が流れていたのだ)が嘘のようにトントン拍子で予定が消化され、撤収時間よりかなり早く“解散”という雰囲気になっていた。
この、初日と2日目のスタジオの空気の変化に、新デュオ論のヒントが隠されていたのだけれども、それに気がついたのが2018年の現在という、なんとも鈍感な取材者だったことを先にお詫びしておこう。
すまん!
演奏を終えた森山威男が、「じゃあ、お先に……」と、煙のように姿を消してしまう。
一方の渋谷毅は、ピアノの前を離れようとせず、「もうちょっと弾いてもいいかな」と言い出した。
再びスタジオはレコーディング・モードに戻って、今度はピアノ・ソロの収録が始まったのだ。
このときの演奏が、単なる試し弾きのレヴェルに終わらず、作品として成立するものにまでなっていたことは、この音源が『アフタヌーン』として正式リリースされたことで説明がつくだろう。
ボクは、この一連のハプニングを運よく目撃することができたのだけれど、当時は渋谷毅の心境にたまたま起きた“変化”が引き起こした“幸運”としか理解できていなかった。
でも、“変化”が起こるには“原因”があるはずだ。
今回、ボクが一連の新デュオ論を考察するなかで、この渋谷毅と森山威男のデュオを“旧習”に振り分けたままにしておくことに抵抗があったのは、渋谷毅の心境に“変化”をもたらした“原因”に新デュオ論を考えるヒントがあったんじゃないかというモヤモヤが拭いきれなかったからなのだと思う。
肝心の“ヒント”とはなにを指すのかといえば、森山威男が繰り出す倍音に、渋谷毅がピアノのチューニングを変えてまで合わせようとしたことで生まれた“景色”。
その“景色”が、まず『しーそー』の心地よい空気感をつくり、それに魅せられた渋谷毅は予定外のソロ・ピアノ作をつくってしまったのではないか、と。
つまり、『アフタヌーン』はソロ・ピアノ作でありながら、デュオでもあるのだ。なぜならば、デュオの『しーそー』がなければ生まれなかったはずなのだから……。
さて、新デュオ論はひとまずここで筆を置くことにしようかな。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
富澤えいちのジャズブログ/富澤えいちのジャズ・ブログ道場Facebook
文/ 富澤えいち
tagged: ジャズ, デュオ, ジャズとデュオの新たな関係性を考える
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