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音楽家の少女時代が鮮やかに蘇る/『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』
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2018.9.26
tagged: ブックレビュー, 芹澤一美, フジコ・ヘミング, フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記
「朝 ピアノの練習。(中略)夕方 エチュードの黒けんのをさらった。すっかりくずれて四番と五番は大変だ。これから 明日着て行くスカートのすそぐけ(*)だ」(本文より/*すそぐけ=すその縫い目が表に見えないように縫うこと)
これは、1946年の夏の何気ない1日が綴られた絵日記の一節。著者は、60代後半でデビューし、80代になった今でも世界中で演奏を続ける魂のピアニスト、フジコ・ヘミングだ。少女時代に「毎年のように書いていた」という絵日記は膨大な量に。その中から青山学院高等女学部2年生の14歳当時に描かれた絵日記が色鮮やかに蘇り、自身の回想とともに1冊の本になった。
絵日記を発見したのは、今年公開された映画『フジコ・ヘミングの時間』の監督、小松荘一郎(荘は旧字)。映画制作のための取材の過程で、偶然、絵日記と出会い、「(フジコの)感受性や洞察力、胸に秘めた未来への希望と不安が瑞々しく伝わり、胸がどきどきした」という(あとがきより)。
フジコは、絵日記を書くようになった理由をこう記している。「私は日本の教育の、すぐに答えを出せ、というやり方が苦手で、授業でもうまく答えられませんでした。私はバカじゃない。絵も文章も書ける。それを見せたくて、宿題でもないのに一生懸命描いたのが、この絵日記です」(「はじめに」より)
ピアノの練習のこと、家族のこと、裁縫やお気に入りの洋服のこと、食べ物のことなどが水彩画とペンで生き生きと描かれ、随所にピアノの練習についても書かれている。「お昼からずっと(ショパンの)エチュードをさらっていた」「一日中、御食事の外は、ピアノを勉強していた。八月にはクロイツァーのところへ おけい古に行かなくてはなりませんが 一つも自しんがなくて大弱り」
終戦直後で食べ物のなかった時代。だから食べ物のことばかりが書かれている。一日一日、必死に生きながら、それでも必ずピアノを弾く。時にユーモラスにも描かれるエピソードには、14歳の少女らしい憧れや空想も滲む。
しかし、当時を赤裸々に語った回想部分には、生きるだけで精一杯だった厳しい現実や波瀾万丈の人生が語られている。やっとチャンスが巡ってきた35歳の時、リサイタル前日に風邪をこじらせて聴力を失う。失意のなかでピアノ教師をしながら生活した。「私の出番はこの世にはなくても天国にあるだろう」。そんなふうに考え、ただただピアノを弾き続けた。
そんなフジコが、NHKドキュメンタリー『フジコ~あるピアニストの軌跡~』(1999年2月)の放映によって、一夜にして「時の人」になる。デビューCD『奇跡のカンパネラ』は、クラシック界異例の大ヒットを記録した。現在も、ソロ公演や著名オーケストラとの共演を重ねている。
彼女のピアノは、なぜ多くの人々の琴線に触れるのか。情感あふれる演奏は、どのように生み出されたものなのか。本書はその魅力の源泉を読み取ることのできる1冊といえるだろう。
巻末に収載された、ショパン「バラード第1番」の楽譜(母から譲り受けたという)には、フジコ自身の書き込みも。「美しく、大好きな曲」である「バラード第1番」は、疎開先の岡山で一番よく弾いていた曲だという。ボロボロになった楽譜の全ページに、フジコの人生そのものが染み込んでいるようだ。
フジコ・ヘミング(ふじこ・へみんぐ)
本名ゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ。ピアニスト大月投網子(とあこ)とロシア系スウェーデン人の画家・建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングを両親として、ベルリンに生まれる。母のてほどきでピアノを始め、10歳からレオニード・クロイツァーに師事。東京藝術大学卒業後、ベルリン音楽大学留学。卒業後はウィーンで暮らす。ソリストとして契約するも、聴力を失い治療に専念。ピアノ教師をしながら欧州各地で演奏活動を続け、左耳のみ40%まで回復。1995年帰国。現在、パリと東京で暮らす。
『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』
著者:フジコ・ヘミング
発売元:暮しの手帖社
発売日:2018年6月
価格:2,500円(税込)