Web音遊人(みゅーじん)

セミヨン・ビシュコフがチェコ・フィルの新たな時代を拓く

世界にはその土地の特徴と歴史を映し出す名門オーケストラがいくつか存在するが、プラハのルドルフィヌムを本拠地とするチェコ・フィルハーモニー管弦楽団もそのひとつ。ルドルフィヌムはヴルタヴァ(モルダウ)川右岸に位置するヤン・パラフ広場にあるコンサートホールで、ネオ・ルネサンス様式の美しい建物。「プラハの春音楽祭」の主要会場としても知られ、そのなかのドヴォルザーク・ホールは音響のよさでも定評がある。

チェコ・フィルは創設124年を誇り、1896年1月4日のルドルフィヌムでの創立コンサートではドヴォルザークが自作を指揮した。2018年10月、その名門オーケストラの首席指揮者・音楽監督に就任したのが、1952年レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれのセミヨン・ビシュコフだ。彼は16年にチェコ・フィルとのチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をリリースし、19年秋にはチャイコフスキーの交響曲全曲、3つのピアノ協奏曲をはじめとする「チャイコフスキー・プロジェクト」のボックスセットを発売した(デッカ・レーベル)。

「私はロシア出身ですから、チャイコフスキーの録音の話をデッカからいただいたときは、30秒で即決しましたよ。チャイコフスキーの音楽は、どんな時代、どんな民族、どんな世代の人をも感動させ、人の精神に影響をおよぼす不思議な力を有しています。チャイコフスキーは謎の死を遂げたことで知られますが、彼が最後に残した交響曲第6番《悲愴》は、その死に抗議しているような意味合いを感じます。けっして彼は死を受け入れたわけではないと思う。コーダの部分を注意深く聴いてください。その気持ちが理解できるはずです」

2019年10月にはそのセミヨン・ビシュコフとチェコ・フィルが来日し、チャイコフスキーの交響曲やヴァイオリン協奏曲、スメタナの「わが祖国」などを披露。歴史と伝統に育まれた深々とした音に、ビシュコフの新たな挑戦を加えたみずみずしさあふれる演奏を聴かせ、オーケストラファンの心をとらえた。

公演の合間を縫って、ビシュコフがチェコ・フィルとの出合い、絆、今後の方向性などを語ってくれた。

「私は世界各地のオーケストラを振っていますが、チェコ・フィルとは特別な関係にあります。今回は私の新しい恋人と日本にやってきたんですよ(笑)。チェコ・フィルは独特の音色を備えています。このオーケストラは、2017年に偉大なる指揮者イルジー・ビエロフラーヴェクが亡くなり、後任者を探していました。私はすでにチャイコフスキー・プロジェクトで彼らと録音を行っていましたが、まさか音楽監督になるとは思ってもいませんでした」

ビシュコフは、あるときチェコ・フィルの客演指揮を行い、ルドルフィヌムの美しい楽屋で演奏後のひとときを楽しんでいたという。

「すると楽屋の扉がノックされ、第1コンサートマスターのスパチェクさんが立っていて、そのうしろにオーケストラ全員がそろっていたのです。そして“私たちはマエストロ・ビエロフラーヴェクが亡くなり、孤児になってしまいました。ぜひ、わたしたちのパパになってください”といったのです。オーケストラ全員が私に熱い視線を向けていました」

実は、ビシュコフは7年間というもの、いずれかのオーケストラのポジションを得るのではなく、世界各地のオーケストラを自由に指揮する客演指揮者という役割を楽しんでいたのである。

「私はその時期とてもフリーな立場で、7年間もその自由を楽しんでいたのですが、スパチェクさんは“マエストロ、あなたは私たちから一番いいところを引き出してくれます。ぜひ、首席指揮者・音楽監督になってください”といったのです。私はこうして突如120名の孤児の父親になってしまったわけですよ(笑)」

話を聞いていると、まるでドラマのようだと思った。その情景が浮かんでくるからだ。ビシュコフはビエロフラーヴェクが築き上げたものを継承し、さらに新しいエッセンスを加えてオーケストラをよりよい方向に導こうと考え、即座にチェコ・フィルとの歩みを進めることを決意したという。

今回の日本公演では、まさにその深く熱い両者の絆が現れた演奏が披露され、あまりにも指揮者とオーケストラが真摯に情熱を傾けて演奏するその精神と姿勢に、胸に熱いものがこみ上げてくるほどだった。

■アルバムインフォメーション

『チャイコフスキー:交響曲第6番《悲愴》』
セミヨン・ビシュコフ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

発売元:ユニバーサル ミュージック
発売日:2019年10月16日
料金:3,080円(税込)
詳細はこちら

伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー

特集

児玉隼人

今月の音遊人

今月の音遊人:児玉隼人さん「音ひとつで感動させられるプレーヤーになれるように日々練習しています」

13198views

音楽ライターの眼

スリープ『ドープスモーカー』が新仕様で復活。名盤は何度でも蘇る

3923views

楽器探訪 Anothertake

目指したのは大編成のなかで際立つ音と響き「チャイム YCHシリーズ」

13291views

エレキギター

楽器のあれこれQ&A

エレキギターのサウンドメイクについて教えて!

2814views

コハーン・イシュトヴァーンさん Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ハンガリー出身のクラリネット奏者コハーン・イシュトヴァーンがバイオリンを体験レッスン!

11768views

オトノ仕事人

音楽フェスのブッキングや制作をディレクションする/イベントディレクターの仕事

15021views

HAKUJU HALL(白寿ホール)

ホール自慢を聞きましょう

心身ともにリラックスできる贅沢な音楽空間/Hakuju Hall(ハクジュホール)

27142views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

8114views

上野学園大学 楽器展示室」- Web音遊人

楽器博物館探訪

伝統を引き継ぐだけでなく、今も進化し続ける古楽器の世界

14619views

武豊吹奏楽団

われら音遊人

われら音遊人: 地域の人たちの喜ぶ顔を見るために苦しいときも前に進み続ける

2851views

『チュニジアの夜』は相当に難しいが、次回のレッスンが待ち遠しい 山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

『チュニジアの夜』は相当に難しいが、次回のレッスンが待ち遠しい

6487views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

28268views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:注目の若手サクソフォン奏者 住谷美帆がバイオリンに挑戦!

10703views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

16871views

音楽ライターの眼

メトロポリタン歌劇場の130年のドラマを詳細に描き出した著作が登場

3136views

オトノ仕事人

新たな音を生み出して音で空間を表現する/サウンド・スペース・コンポーザーの仕事

8487views

みどりの森保育園ママさんブラス

われら音遊人

われら音遊人:子育て中のママさんたちの 音楽活動を応援!

7953views

楽器探訪 Anothertake

バンドメンバーになった気分でアンサンブルを楽しめるクラビノーバ「CVP-800シリーズ」

8669views

サラマンカホール(Web音遊人)

ホール自慢を聞きましょう

まるでヨーロッパの教会にいるような雰囲気に包まれるクラシック音楽専用ホール/サラマンカホール

25906views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

クラス分けもまた楽しみ、レッスン通いスタート

5500views

暖房

楽器のあれこれQ&A

ピアノを最適な状態に保つには?暖房を入れた室内での注意点や対策

64917views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

8114views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

11857views