今月の音遊人
今月の音遊人:H ZETT Mさん「音楽は目に見えないですが、その存在感たるやすごいなと思います」
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連載25[ジャズ事始め]ジャズ・メッセンジャーズの初来日が日本のジャズ・シーンの空気感を一変させた
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2020.12.3
1961年1月、穐吉敏子は5年ぶりに日本の土を踏みしめていた。ある音楽事務所の招きで帰国公演を行なうためである。
バークリー音楽大学在学中から演奏活動を始め、卒業後も帰国せずにニューヨークへ拠点を移して精進を重ねていた彼女を突き動かしていたのは、留学を経て学んだひとつの想いだった。それは、「それまで物真似で済んでいた私はそれを越えて、自己の物、自分の癖のあるジャズの『言葉』を培わねば何の意味もないという、極めて当たり前のこと」(引用:「NHK人間講座 私のジャズ物語」日本放送出版協会)。
1961年の時点で、彼女のこの想いはまだ“成就していた”とは言えず、志半ばだったようだ。しかし、バークリー音楽大学の教授も務めるアルト・サックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚し、“ジャズの本場”とされるニューヨークでトシコ=マリアーノ・クァルテットを結成して活動、アルバムもリリースしているというニュースとともに凱旋した彼女を母国は好意的に受け容れ、「運良く、六週間という長期間の演奏旅行は上手くいったようです」(引用:同前)という感想を記している。
穐吉敏子の渡米が“箔を付けるため”であったなら、目的は十分に遂げたのだから、そのまま日本での活動基盤を築いていただろうに、彼女はそうすることなくアメリカへと帰って行く。
理由は前述の“志半ばであった”からというわけなのだけれど、彼女がこだわっていた“物真似ではないジャズ”への追究心が、この訪日を機にさらに高まったのではないかとも推測されるのだ。
実は、穐吉敏子の凱旋と時を同じくして、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが来日、その熱狂が日本全土へと広がったことも、彼女の“物真似ではないジャズ”への追究心を燃え立たせたことは想像に難くない。
1961年1月1日、ドラマーのアート・ブレイキー率いる一行が東京・羽田空港に降り立った。夜10時の到着だったにもかかわらず熱狂的なファンが出迎えたというから、その注目度の高さがうかがえる。
1月2日から15日までの2週間、東京、大阪、神戸を会場に行なわれた計15ステージが日本のジャズ・シーンに与えた影響は、一気にそれまでの流れを変えるほど大きかった。
当時、日本でアメリカの最先端のジャズ情報に触れるにはレコードに頼るしかなく、その輸入盤も入ってくるのは半年から1年遅れで、国内盤の発売を待っていたら数年先になってしまうこともあったらしい。
そうした状況だったから、ジャズ・シーンの次世代を担うと目された代表的なバンドの生演奏に触れることができるこの来日が、日本の先取的な人たちのあいだでも噂になっていて、瞬く間に“ジャズ発展途上国”だった日本全土でブームを巻き起こしたのもむべなるかな。
その空気感の変化を感じ取ったことで、穐吉敏子はアメリカへ戻り、渡辺貞夫も留学を決断したのではないか──という展開へ続けたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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