Web音遊人(みゅーじん)

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase2)チャイコフスキー『スラブ行進曲Op.31』 傷病兵救済の慈善演奏会、U2のキーウ地下鉄ライブにつながるか

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase2)チャイコフスキー『スラブ行進曲Op.31』 傷病兵救済の慈善演奏会、U2のキーウ地下鉄ライブにつながるか

反戦・平和が信条でも、トランペットや打楽器が華々しく鳴る軍楽的な行進曲に心躍る人は多い。クラシック音楽を好む理由の一つは、マーラーやショスタコーヴィチの交響曲にスペクタクルな行進曲があることだったりする。ロックと同様、パワーをもらえる。チャイコフスキーの『スラブ行進曲Op.31』は最たる作品。1876年、セルビア傷病兵救援基金募集のための慈善演奏会用に作曲、初演された。国威発揚でも戦意高揚でもなく、慈善が第一の目的だった。チャイコフスキーの思いはU2のキーウ地下鉄駅防空壕ライブにつながるか。

ロシアと同じスラブ民族のセルビアを支援

2022年2月にロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まって以来、チャイコフスキーの音楽はしわ寄せを受けている。ナポレオン率いるフランス軍にロシア軍が勝利する様子を描いた『大序曲1812年Op.49』は不適切だとして各地で演奏中止が相次いだ。
やはりチャイコフスキーが愛国心に駆られて作曲したといわれる『スラブ行進曲』も演奏しにくい状況だろう。両曲とも帝政ロシア国歌『神よ、ツァーリを護り給え』を引用している。だが『スラブ行進曲』は同じスラブ民族のセルビア人を支援する意図を持っていた。チャイコフスキーは曲名を当初の『セルビア・ロシア行進曲』から『スラブ行進曲』に変えた。ロシア主導の汎スラブ主義の反映とはいえ、ウクライナも含むスラブ諸族を励ます内容さえ読み取ろうと思えばできるのは興味深い。チャイコフスキーはウクライナ・コサックの家系で、妹の嫁ぎ先もウクライナであることも考えると、「スラブ」の意味は増す。


Tchaikovsky: Marche Slave · César Iván Lara · Orquesta Sinfónica Juvenil de Caracas

1875年、オスマン帝国の圧政に苦しむキリスト教徒のセルビア人が反乱を起こした。セルビア公国は翌76年、宗主国のオスマン帝国に宣戦布告したが、苦戦を強いられ、多くの犠牲者を出した。モスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインは犠牲者追悼とセルビア傷病兵救済のための募金を目的とした慈善演奏会を企画。親友のチャイコフスキーが彼の依頼に応じて『スラブ行進曲』を作曲した。ルビンシテインの指揮によるモスクワでの初演は熱狂に包まれたという。
甘美な旋律と分かりやすさからチャイコフスキーを通俗的だとして軽視する風潮がある。だが人気を集める通俗性はあったほうがいい。幼少時からモーツァルトの音楽に親しんだチャイコフスキーは、明快な形式に感情と叙情の過剰なドラマを盛り込んだ作品を書いた。フルトヴェングラーが言ったように「すべて偉大なものは単純」なのだ。筋金入りのクラシック音楽ファンこそチャイコフスキーをこよなく愛す。

愁いを帯びた民謡『明るい太陽』の展開

『スラブ行進曲』の魅力はまず、哀愁を帯びたセルビア民謡『明るい太陽よ、あなたは平等には照らさない』による変ロ短調の主題の展開にある。不穏な雰囲気を強調し、圧政と戦争の恐怖を感じさせる。不安定なドミナント(属音、属和音)を異様に引き延ばしてトニック(主音、主和音)のインパクトを強めるチャイコフスキーらしい作曲手法だ。『明るい太陽』が威圧感のある行進曲となって頂点を築いた後、軽快な変ニ長調に変わり、セルビア民謡『セルビア人は喜んで軍隊に入る』の主題が登場する。最後に帝政ロシア国歌も鳴り響き、セルビアとロシアの勝利を確信する大団円を築く。
ちなみに『スラブ行進曲』の出だしは、同じ『明るい太陽』の音型を使ったリムスキー=コルサコフの『セルビア幻想曲Op.6』(1867年)の冒頭と酷似している。チャイコフスキーはこの作品を称賛していた。当時、セルビア人作曲家コルネリイェ・スタンコヴィッチ(1831~65年)がセルビア民謡を書き留めて編曲しウィーンで出版を重ねていた背景もある。ロシアでもセルビア音楽への関心が高まっていたとみられる。

『大序曲1812年』と『スラブ行進曲』、幻想序曲『ロミオとジュリエット』、『イタリア奇想曲』を収めたカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のCD『チャイコフスキー:1812年』(ユニバーサルミュージック)

『大序曲1812年』と『スラブ行進曲』、幻想序曲『ロミオとジュリエット』、『イタリア奇想曲』を収めたカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のCD『チャイコフスキー:1812年』(ユニバーサルミュージック)

LPレコード時代は1966年録音のカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団「チャイコフスキー:『大序曲1812年』、『スラブ行進曲』、幻想序曲『ロミオとジュリエット』」(独グラモフォン)が定番だった。CDでは『イタリア奇想曲』を加え、『カラヤン文庫』として出ている。中でも『スラブ行進曲』は親しみやすい旋律とリズム、各楽器の特徴が引き立つ色彩豊かな管弦楽法などでクラシック入門向きだが、生涯聴ける名曲でもある。

白旗掲げ行進するU2『ブラディ・サンデー』

慈善演奏会での『スラブ行進曲』を想像すると、アイルランド出身のロックバンド「U2」が思い浮かぶ。2022年5月、ウクライナのゼレンスキー大統領の招きで首都キーウ地下鉄駅防空壕にてボーカルのボノとギターのジ・エッジがライブをしたのは記憶に新しい。2人が演奏した曲の一つが1983年のサードアルバム『WAR(闘)』の1曲目『ブラディ・サンデー』。デモ参加のカトリック系市民に英国軍が発砲した北アイルランド紛争の悲劇「血の日曜日事件」を扱っている。


Sunday Bloody Sunday (Live From Red Rocks Amphitheatre, Colorado, USA / 1983 / Remaste…

キーウではギター伴奏のみのアコースティックな編曲だったが、原曲はドラムスがマーチとも機関銃とも思える強烈なリズムを叩き出し、ジ・エッジのエレキギターがひずんだ響きでうなりまくり、ボノが「ノー・モア!(あの悲劇には戻らない)」と絶叫する。U2が『ブラディ・サンデー』をライブで演奏するとき、ボノは非暴力の象徴である白旗を掲げて行進するパフォーマンスを繰り広げてきた。非暴力の連帯を訴えるロック行進曲だ。

『ブラディ・サンデー』を含む自作を新解釈で新録音したU2のニューアルバム『ソングズ・オブ・サレンダー』(2023年、ユニバーサルミュージック)

『ブラディ・サンデー』を含む自作を新解釈で新録音したU2のニューアルバム『ソングス・オブ・サレンダー』(2023年、ユニバーサルミュージック)

『ブラディ・サンデー』を収めたU2のアルバム『WAR(闘)』(1983年、ユニバーサルミュージック)

『ブラディ・サンデー』を収めたU2のアルバム『WAR(闘)』(1983年、ユニバーサルミュージック)

『スラブ行進曲』初演後の1877年、露土戦争が始まり、ロシアはオスマン帝国に勝利した。チャイコフスキーの行進曲は結果として当時のロシア参戦を煽ったかもしれない。人々を感動させる音楽は良くも悪くも政治的に利用価値がある。U2の非暴力へのロック行進曲はどんな結果を生み出すか。チャイコフスキーとU2の音楽に感動しないでいるのは難しい。真の感動の発見はアクチュアルな問題の直視から始まる。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介

特集

今月の音遊人:諏訪内晶子さん

今月の音遊人

今月の音遊人:諏訪内晶子さん「音楽の素晴らしさは、人生が熟した時にそれを音で奏でられることです」

21896views

音楽ライターの眼

多彩な演目でタンゴの魅力を放つ/アストル・ピアソラ没後30th Anniversary 小松亮太 Homage to Piazzolla -featuring 古川展生-

2086views

Venova(ヴェノーヴァ)

楽器探訪 Anothertake

やさしい指使いと豊かな音色を両立させた、「分岐管」と「蛇行管」

1views

FGDPシリーズ

楽器のあれこれQ&A

新たな可能性を秘めた楽器、フィンガードラムパッドに注目!

1571views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:独特の世界観を表現する姉妹のピアノ連弾ボーカルユニットKitriがフルートに挑戦!

5662views

オトノ仕事人

新たな音を生み出して音で空間を表現する/サウンド・スペース・コンポーザーの仕事

8498views

水戸市民会館

ホール自慢を聞きましょう

茨城県最大の2,000席を有するホールを備えた、人と文化の交流拠点が誕生/水戸市民会館 グロービスホール(大ホール)

11670views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

8122views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

世界の民族楽器を触って鳴らせる「小泉文夫記念資料室」

26591views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:仕事もバンドも、常に真剣勝負!

10518views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

すべては、あの日の「無料体験レッスン」から始まった

6078views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

28283views

脱力系(?)リコーダーグループ栗コーダーカルテットがクラリネットの体験レッスンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】脱力系(?)リコーダーグループ栗コーダーカルテットがクラリネットの体験レッスンに挑戦!

12114views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

11682views

音楽ライターの眼

セミヨン・ビシュコフがチェコ・フィルの新たな時代を拓く

6506views

小林洋平

オトノ仕事人

感情や事象を音楽で描写し、映画の世界へと観る人を引き込む/フィルムコンポーザーの仕事

5320views

Leon Symphony Jazz Orchestra

われら音遊人

われら音遊人:すべての楽曲が世界初演!唯一無二のジャズオーケストラ

2491views

トランスアコースティックギター「TAG3 C」

楽器探訪 Anothertake

デジタル技術が広げるアコースティックギターの可能性──トランスアコースティックギター「TAG3 C」

4022views

久留米シティプラザ - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

世界的なマエストロが音響を絶賛!久留米の新たな文化発信施設/久留米シティプラザ ザ・グランドホール

21824views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

クラス分けもまた楽しみ、レッスン通いスタート

5505views

アコースティックギター

楽器のあれこれQ&A

アコースティックギターの保管方法やメンテナンスのコツ

9811views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

8122views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

11870views