Web音遊人(みゅーじん)

イリヤ・イーティン

ピアノをどう弾くかは、芸術であり科学/イリヤ・イーティン インタビュー

ロシアのエカテリンブルグに生まれ、突出した才能と卓越した技法を持つピアニストとして知られるイリヤ・イーティンのリサイタルが、2023年7月9日(日)にヤマハホールで開催される。プログラムは、F.シューベルトとJ.ブラームス。今回の曲は、この場所でヤマハのコンサートグランドピアノ「CFX」を弾くことを前提に選んだという。

シューベルトの音楽はシンプルにみえて深淵

イーティンがリサイタルで取り上げるシューベルトとブラームスは、彼にとって大切な作曲家たちだ。なかでもシューベルトには“心にとても近いものを感じる”と言い、出会いは幼少期にさかのぼった。
「初めて触れたシューベルトは、叔母が歌っていた『セレナーデ』と『水の上で歌う』でした。彼女に何て曲?と聞くと、“えっ、あなたこの曲を知らないの!?自分で調べなさい!”と言われて……。私はまだ小さな子どもだったというのに(笑)。幼い頃から家では常に音楽が流れていましたが、父がバロック好きだったため、耳にしていたのはパーセル、ヴィヴァルディ、パレストリーナ、バッハばかりだったのです。それから私は、叔母が持っていた歌曲集の楽譜の中に彼女が歌っていたメロディをみつけ、これがシューベルトの音楽なのだと知り、その天国的な美しさにすぐに魅了されました。良い出会いでした」
音楽院に入ってからは、歌曲の伴奏や室内楽で多くのシューベルト作品に触れた。やがてピアノソロ作品を弾きたいと思うようになり、先生に相談したが「もう少し大人になるまで待ちなさい」と言われて、なかなか弾かせてもらえなったと話す。
「リーズ国際ピアノコンクールを受けた29歳のとき、もうこの年齢ならいいかと思って、私はシューベルトの『ピアノ・ソナタ 第21番D.960』を弾きました。コンクール向きのレパートリーではないと言う人もいましたが、あとで審査員の一人に、私が優勝できたのはこの曲のおかげだっただろうと言われました。以来、私もシューベルトを弾けるかもしれないと思えたのです」

イリヤ・イーティン

今回の公演で演奏するのは、『楽興の時 D.780 Op.94』と『ピアノ・ソナタ 第4番 D.537 Op.164 イ短調』。いずれの作品からも、特別な魅力を感じるらしい。
「表面上はシンプルにみえて、実際その音楽はとても深淵。シューベルトは人の目をくらます天才です。一見“ユーザーフレンドリー”だけれど、実際にはそれとかけ離れた恐ろしい一面があります。彼は他の作曲家たちが行く勇気のなかった場所に、いとも簡単に行ってしまいます。可愛らしい雰囲気で音楽が進んでいると思ったら、突然、真っ暗な空虚をみせ、しかしすぐに素敵な音楽に戻っていく。あの音楽から、なぜそう感じられるのかはわかりません。その答えをみつけるために、私はシューベルトを演奏し続けているのです」

比較で取り上げるのは、ベートーヴェンの影響が色濃いブラームス

イーティンがシューベルトに心惹かれるもう一つの理由は、ベートーヴェンとの比較に由来する。
「シューベルトは、ベートーヴェンより後の世代ですが、生きた時代はほとんど重なっています。しかし音楽の作り方は全く異なっていて、ベートーヴェンはある目的に向かい、どんな問題が起きてもその解決法を見つけようとします。一方、シューベルトは問題を見出しながら、それを解決しようとしているのか、どうでもいい、“ドウニカナルサ!”と思っているのかわかりません。堂々巡りをしていると感じるのです」

あわせて本公演で取り上げるのは、ベートーヴェンの影響が色濃いブラームスが、20歳のときに作曲した『ピアノ・ソナタ 第3番 Op.5 ヘ短調』だ。
「この曲は衝動的で、意欲と情熱にあふれています。この作品を書いた頃のブラームスは若かったけれど、彼は世に出た瞬間から成熟していたタイプ。もちろん生涯で作風は変化していますが、初期でもすでに自分が何であるか、進むべき方向はどこかを知っていたのだろうと感じます」

イリヤ・イーティン

「CFX」を弾くことを前提に選ばれたプログラム

イーティンはいつも、プログラムをコンセプトや物語を創作していくような感覚で組み立ててゆくと話す。
「今回は、ドイツ・ロマン派の音楽の始まりから終わりに向かう時期をたどる内容で、時代の流れのアーチを描く、興味深いプログラムです。作曲家が自ら演奏していた時代と違い、現代の演奏家は他人が書いた曲を弾きます。だからこそ、自分の役割は何かを考えた上で選曲しています」
このプログラムは、ヤマハホールでコンサートグランドピアノ「CFX」を弾くことを前提に選んだ。
「ヤマハホールはピアノリサイタルに最適な大きさで、音響も良いです。シューベルトはよく、友人が集うシューベルティアーデという場で演奏していましたが、まさにそんな、親しい人と音楽を分かち合う本来の雰囲気を味わうことができるでしょう。またヤマハのCFXは、すばらしい楽器で私に多くの可能性を提供してくれます。だからこそ逆に、自分の“食欲”を抑制するのが大変です。つまり、楽器が“こんなことも、あんなこともできますよ”とさまざまな色をみせてくるからこそ、どこかで“ありがとう、でも充分です。私にはこれがあればいいんです”と言わなくてはいけない。そうでないと、楽器に甘えて全部使おうとしてしまいます。正しい音色を正しいタイミングで選ぶことは、とても重要です」

それではイーティンがシューベルト、ブラームスそれぞれに求めるのは、どんな音なのだろうか。そしてその音は、どんなふうに生み出すのだろうか。
「シューベルトでは、光を探しています。それも一本のロウソクが放つような、薄暗い光です。ブラームスでは室内楽的な音、管楽器や弦楽器が掛け合いをするときの音を求めています。たとえば、私たちは考えることなく自然に呼吸しているでしょう。ピアノを弾くのも同じこと。自然であるべきだけれど、それは一つの行動でもある。ピアノをどう弾くかは、芸術であり科学なのです。そのため常に楽器を研究し、そこで知ったことを演奏上どう適用するか、考え続けないといけません。そして演奏中は、常に自分の耳に導かれながら、その場で音楽を作っていくことが大切です」
その日その場所、その楽器だからこそ生み出される、イーティンのシューベルトとブラームスに期待しよう。

イリヤ・イーティン

■イリヤ・イーティン ピアノリサイタル

日時:2023年7月9日(日)14:00開演(13:30開場)
会場:ヤマハホール(東京・銀座)
料金(全席指定):一般チケット5,000円、学生チケット2,000円
曲目:F.シューベルト:楽興の時 D.780 Op.94、ピアノ・ソナタ 第4番 D.537 Op.164 イ短調、J.ブラームス:ピアノ・ソナタ 第3番 Op.5 ヘ短調
詳細はこちら

photo/ 宮地たか子

本ウェブサイト上に掲載されている文章・画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。

facebook

twitter

特集

神保彰

今月の音遊人

今月の音遊人:神保彰さん「音楽によって、人生に大きな広がりを獲得できたと思います」

12414views

ショスタコーヴィチ「交響曲第12番」とイーグルスと浜田省吾、それぞれの“希望ヶ丘ニュータウン”

音楽ライターの眼

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase5)ショスタコーヴィチ「交響曲第12番」とイーグルスと浜田省吾、それぞれの“希望ヶ丘ニュータウン”

1450views

変えるべきもの、変えざるべきものを見極める

楽器探訪 Anothertake

変えるべきもの、変えざるべきものを見極める

14280views

楽器のあれこれQ&A

ウクレレを始めてみたい!初心者が知りたいあれこれ5つ

4302views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:独特の世界観を表現する姉妹のピアノ連弾ボーカルユニットKitriがフルートに挑戦!

4372views

弦楽器の調整や修理をする職人インタビュー(前編)

オトノ仕事人

見えないところこそ気を付けて心を配る/弦楽器の調整や修理をする職人(後編)

8084views

HAKUJU HALL(白寿ホール)

ホール自慢を聞きましょう

心身ともにリラックスできる贅沢な音楽空間/Hakuju Hall(ハクジュホール)

21982views

Kitaraあ・ら・かると

こどもと楽しむMusicナビ

子どもも大人も楽しめるコンサート&イベントが盛りだくさん。ピクニック気分で出かけよう!/Kitaraあ・ら・かると

5846views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

9823views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:仕事もバンドも、常に真剣勝負!

9437views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4397views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

29110views

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

8910views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

世界に一台しかない貴重なピアノを所蔵「武蔵野音楽大学楽器博物館」

21991views

ロニー・モントローズの最後のアルバム『10x10』が遂に発売

音楽ライターの眼

ロニー・モントローズの最後のアルバム『10X10』が遂に発売

6536views

楽器博物館の学芸員の仕事 Web音遊人

オトノ仕事人

わかりやすい言葉で、知られざる楽器の魅力を伝えたい/楽器博物館の学芸員の仕事(後編)

8250views

われら音遊人

われら音遊人:路上イベントで演奏を楽しみ地域活性にも貢献

2990views

CLP-600シリーズ

楽器探訪 Anothertake

強弱も連打も思いのままに、グランドピアノに迫る弾き心地の電子ピアノ クラビノーバ「CLP-600シリーズ」

44078views

人が集まり発信する交流の場として、地域活性化の原動力に/いわき芸術文化交流館アリオス

ホール自慢を聞きましょう

おでかけ?たんけん?ホール独自のプランで人々の厚い信頼を獲得/いわき芸術文化交流館アリオス

7250views

パイドパイパー・ダイアリー

こうしてわたしは「演奏が楽しくてしょうがない」 という心境になりました

8316views

楽器のあれこれQ&A

きっとためになる!サクソフォンの基礎力と表現力をアップする練習のコツ

17710views

こどもと楽しむMusicナビ

1DAYフェスであなたもオルガン博士に/サントリーホールでオルガンZANMAI!

2887views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

29110views