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連載19[ジャズ事始め]ジャズのフィーリングを体得した穐吉敏子が「フィリピン人のようだ」と褒められたワケ
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2020.8.28
1929年(昭和4年)、当時の満州国・遼陽(現在の中華人民共和国遼寧省)で生まれた穐吉敏子は、小学1年生のときに耳にしたモーツァルトのピアノソナタ第11番第3楽章「トルコ行進曲」に導かれてピアノを弾くようになった。
ジャズと出逢うのは、終戦で日本へ引き揚げてきてからのこと。街のダンスホールに貼り出されていた「ピアニスト求む」という求人広告に惹かれてその門を叩き、戦時下では自由にならなかった演奏環境を取り戻せると思ったのが動機だった。つまり、ピアノさえ弾ければいいと思って飛び込んだダンスホールという場所では、どんな音楽の演奏能力が必要とされるかをまったく知らなかったことになる。
案の定、面接でバンドのリーダーに「コードは読めるのか?」と問われて「コードってなんですか?」と問い返す始末。しかし、全国にダンスブームが拡大し、楽器が弾けるなら“猫の手も借りたい”という時期だったことが味方し、採用。ひょんなことから、“世界のアキヨシ”と呼ばれるまでになるジャズ音楽家&ジャズ・ピアニストの歩みが始まることになった。
今回、“ジャズ事始め”の原稿を起こすにあたって、日本のジャズに影響を与えたに違いないアジアにおける“ジャズ文化圏”との関係性を取り上げ、考察しているわけだけれど、改めて穐吉敏子に関する文献をひもといてみると、興味深い記述を見つけることができたので、挙げておきたい。
大分・別府のダンスホールでジャズの仕事を始めた穐吉は、彼女にジャズのすばらしさを気付かせたテディ・ウィルソンのレコードを繰り返し聴いて、ジャズとしてのニュアンスや表現力を身につけていく。
ある日、彼女が所属していたビッグバンドが新たなレパートリーを追加。そこにはピアノ・ソロのパートがあったので、日頃から考え工夫していた演奏を披露してみたところ、終演後にリーダーからお褒めの言葉をもらった。
その理由は、「フィリピン人プレイヤーのように聞こえた」から──。
「つまりその頃は、フィリピン人プレイヤーのほうがジャズの感覚が日本人より優れているとされていたのです。実際、それから間もなく東京に出た私は、フィリピン出身のフランシスコ・キーコ(ピアノ)とレイモンド・コンテ(クラリネット)の率いる小編成のグループを聞いたことがあります。当時の私には彼らの演奏が素晴らしく、感心しました。いかにもジャズっぽい匂いだったのです。考えてみると、フィリピンは二十世紀初頭から第二次世界大戦が終わるまで米国のいわば植民地でありましたから、ジャズに触れている年数が日本より長いわけです」(引用:NHK人間講座・秋吉敏子「私のジャズ物語 ロング・イエロー・ロード」日本放送出版協会刊)
次回は、穐吉敏子の言葉をもう少し引用して、アメリカを拠点としながらアジア(日本)に軸足を置いた活動を続けた彼女が、どのようにジャズと向き合ったのかを見ていきたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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