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【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#019 編集を加えてまでアドリブ至上主義に抗ったオリジネーターの矜持~セロニアス・モンク『ブリリアント・コーナーズ』編
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2023.8.25
tagged: 音楽ライターの眼, ジャズの“名盤”ってナンだ?, セロニアス・モンク
セロニアス・モンクも#008『セロニアス・ヒムセルフ』に続いて2度目の登場。
2021年に日本で公開された映画『ジャズ・ロフト』は、1950年代のニューヨーク・マンハッタンのロフト・アパートメント(倉庫などに使用された建物を改造した集合住宅)で記録された写真と音源をもとに構成されたドキュメンタリーでした。
このロフトには夜な夜なジャズ・ミュージシャンたちが集まり、セッションが繰り広げられていました。その中心的存在としてクローズアップされていたのが、当時のジャズシーンで最も注目を集めていたと言っても過言ではないセロニアス・モンクだったのです。
映画に使用された写真を撮り音源を残していたのは、著名な写真家のユージン・スミス。舞台となったロフトも彼が住んでいたもの。
ユージン・スミスは、第二次世界大戦下に従軍記者としてサイパン、沖縄、硫黄島といった“最前線”に派遣されて活動するも、日本軍の砲弾で負傷し、療養を余儀なくされます。
これを転機に写真と文章を組み合わせたフォト・エッセイに取り組むようになり、1957年にマンハッタンに移り住んで始めたのが、前述のジャズ・ミュージシャンたちの撮影と、彼らの演奏の録音でした。
ちなみに彼は1971年に来日し、熊本・水俣を訪れたことをきっかけに3年にわたる撮影を行ない、水俣病をテーマにした写真集『MINAMATA』を出版します。
話を『ジャズ・ロフト』に戻すと──。
その映画に記録されたロフトという場所は、儲からないビバップ系ジャズに理解のあるユージン・スミスがミュージシャンたちに与えた“演奏の場”というよりも、社会問題に関心の強い彼が興味を抱いていたジャズ・ミュージシャンたちを集めるために用意した撮影・録音スタジオだったと考えるほうが腑に落ちます。
そして、その彼の目に最も輝いて映っていたと思われるのがセロニアス・モンクであり、ロフトが開設された1957年はまさに、『ブリリアント・コーナーズ』がリリースされた年でした。
という前説をしてから、この“名盤”に取り組み直すことにしましょう。
セロニアス・モンクがリバーサイド・レコードで制作した3枚目のアルバムです。
LP盤でA面に2曲、B面に3曲の合計5曲を収録。
『バルー・ボリヴァー・バルーズ・アー』と『パノニカ』は、セロニアス・モンク(ピアノとチェレスタ)、アーニー・ヘンリー(アルト・サックス)、ソニー・ロリンズ(テナー・サックス)、オスカー・ペティフォード(ベース)、マックス・ローチ(ドラムス)という顔ぶれで1956年10月9日に収録。
10月15日には同メンバーでタイトル・チューンの『ブリリアント・コーナーズ』に取りかかるも、20数テイクを費やしてもまとまらなかったため、プロデューサーのオリン・キープニュースがいくつかのテイクをつなぎ合わせて1曲にしています。
聴いてみると確かに不自然な箇所がいくつかあり、変則的な7小節のサイクルと目まぐるしく変わるテンポの難曲に参加ミュージシャンたちが四苦八苦したからと言われるとうなずけるのですが、この曲があればこそ本作は“名盤”と呼ばれ、作曲家としてのセロニアス・モンクの名を不滅のものにした、というわけですから、皮肉ですね。
残り2曲は12月7日に日を改めて収録。『ベムシャ・スウィング』はアーニー・ヘンリーとオスカー・ペティフォードが抜け、クラーク・テリー(トランペット)とポール・チェンバース(ベース)が参加していて、マックス・ローチのティンパニが印象的な仕上がりになっています。『アイ・サレンダー、ディア』はセロニアス・モンクのピアノソロです。
「タイトル・チューンでオーケー・テイクが録れなかった」というエピソードは、100%信じられるものではないと、個人的には思っていたりします。
この曲でセロニアス・モンクを納得させられなかった(と言われていて、12月のレコーディングには姿を見せなかった)アーニー・ヘンリーとオスカー・ペティフォードが、いずれも超一流のテクニックを有するジャズ・ミュージシャンであることは、ほかの作品でも証明されていますし、そもそも使えそうな部分を継ぎはぎしてアルバムに収録してしまう、それもA面1曲目で、しかもその曲目をアルバム・タイトルにしたというわけですから、レコード会社の“作為”を感じずにはいられないのです。
さらに、そのタイトルが“Brilliant(ブリリアント=光り輝く、すばらしいの意)”と“Corner’s (コーナーズ=角、隅っこ、窮地の意)”という、どうやらシャレが効いてそうな単語を選んでいることに気づけばなおさらです。
ということは、制作陣はもちろんリスナーも、本作が“作為”を前提に作られたことを知っていて、“作為”があったからこそ成し得た成果だったことを理解していたに違いありません。
ビバップが誕生した1940年代を経て、50年代にはアドリブ合戦を主軸とするハード・バップが席巻し、アレンジにも力を入れたウエストコースト・ジャズが台頭するなか、ビバップのオリジネーターであり東海岸を代表するジャズ・ミュージシャンであるセロニアス・モンクが、アドリブに頼りきったハード・バップではない“構築性の高い曲”をあえて掲げ、大衆化されようとするジャズに物申そうとした──そのことを感じ取って評価した結果の“名盤”なのではないか、と考えるわけです。
参加ミュージシャンがタイトル・チューンの『ブリリアント・コーナーズ』に苦戦したのは、セロニアス・モンクがこの曲で自作の旋律をオーケストレーションしようとしたからではないか、とボクは推測しています。
そうであれば、現場のトライ&エラーの多さも、少ない人数で多くの役割を担わなければならなかったメンバーたちの試考錯誤も、納得がいくのではないでしょうか。
ちょうど同じころ、もうひとりの東海岸ジャズの雄であるマイルス・デイヴィスは、ギル・エヴァンス・オーケストラとのコラボレーションを手がけており、そうした外的要因がセロニアス・モンクの創作意欲を刺激したのではないか、と妄想しながら聴き直してみるのも一興です。
ちなみにセロニアス・モンクは、本作のすぐ後に4管7人編成のアルバム『モンクス・ミュージック』(1957年6月収録)、さらに10人編成で臨んだ『セロニアス・モンク・オーケストラ・アット・タウンホール』(1959年2月収録)と、彼のディスコグラフィのなかで数少ない多数編成の作品を1950年代後半に集中させているので、オーケストラあるいはオーケストレーションに興味のアンテナが向いていたのは確かなんじゃないかと思います。
そういえば、前述の映画『ジャズ・ロフト』にも、ビッグバンド編成のメンバーを率いてセロニアス・モンクが演奏するシーンがありました。
こうして振り返ってみると、ユージン・スミスが、なにか新しいことをやろうとしているセロニアス・モンクの気配を感じ取って、写真と音源を残しておいたのかもしれない──という21世紀になって公開された“証言的映像&音源”とともに、新たな視点で鑑賞できるようになります。それもまた、“名盤”ならではと言えるのではないでしょうか。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
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